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愛着理論

愛着理論を知ったのは、最近のことです。「愛着」英語では attachment。なのでアタッチメント理論とも言います。

「愛着」というと、ちょっと湿っぽい感じがします。「温かさ」だとか「ぬくもり」だとかいうものの、堅めの表現という感じ。理論として取り上げられる愛着・アタッチメントというのは、そうした湿り気を斥けた、乾いたものです。といって、湿り気感が完全になくなるわけではない。「心理学」や「精神分析」は、学問としては乾いたものであるはずなのに、どうしても湿り気感を帯びてしまうのと同じ。「歴史」や「地理」もある意味、同じです。

つまり、愛着とは、ただ、くっついていこうとする動物の性質・性格のこと。群れをつくって暮らす動物には互いに身を寄せ合う性質がある。特に哺乳類はそう。哺乳するには身を寄せなければできません。ヒトもまた、哺乳類の一種です。愛着理論は、人間の心理の理論であると同時に、動物生態学でもあるわけです。

子どもを観察していると、この「愛着」は容易に観て取れます。お母さんやお父さんと一緒にいる子どもに、「わたしはあなたに関心があります」というメッセージを送る。このメッセージは視線で十分です。好意的な眼差しを向ける。子どもはメッセージに気がつくと同時に、身体は親へとくっついていこうとします。手を振ってみたりしてみると子どもは喜んでくれるか、あるいはこちらの関心を拒絶して顔を背けたりもしますが、どちらの反応にしても、こちらのメッセージに反応しながら親によりくっついていく。拒絶ならくっつくのは当然と思えますが、笑顔を返してくれているときでも拒絶しているときと同様にくっついていく。この行動が愛着です。

子どもがくっついていこうとする愛着対象のことを、理論では「安全基地」と言います。他者の関心に興味を示しても拒絶しても、子どもは安全基地へと帰ろうとする。愛着理論では、子どもは安全基地が確保されると自ら外界へ向かって探検しようとする意欲を持つことができるとします。その意欲が好奇心でしょう。他者から向けられた関心に好奇心を示すとき、子どもは同時に安全基地へと帰ろうともしますが、ある意味矛盾したこの愛着行動が人間の知的活動の原型だと言えると思います。

愛着理論が唱えられるようになったのは、第二次世界大戦後のことです。提唱者はイギリスの児童精神医学者だったボウルビィという人だそうです。ボウルビィが愛着理論を着想するきっかけとなったのは、第二次大戦で多く生まれる異なってしまった戦災孤児たちを保護する施設に勤務したこと。戦災孤児たちは身体の発達や罹患率、死亡率、適応不良どの問題を抱えることが多かった。当時は「施設病」などと呼ばれていたようですが、その問題の研究に携わって、問題を抱える子どもたちに欠けているのは、「母親の世話」だということに気がついた。そしてコンラート・ローレンツらの動物生態学の研究を参考に『母子関係の理論』という著作を発表する。一九五八年のことです。

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ぼくが愛着理論のことを知ったのは、2月23日に現代ビジネスに掲載された信田さよ子さんのネット記事です。タイトルは『子どもの成長に影響するのは「愛情」よりも「安心感」だった』)。

ここには「愛着障害」だとか「感覚否定」といった言葉が出てきます。衝撃を受けました。感覚否定なんて、ぼくの関心のど真ん中なのに、知らずにいた。大慌てで関連の本を探して読んでみました。そして、4月30日〆切りの投稿原稿のプロットを組み替えることにしました。

もうひとつ驚いたのは、愛着理論は戦後のものだという事実です。だって、どう考えても当たり前じゃないですか。大人が子どもの「安全基地」であるだなんてことは。それがヒトという生き物だし、他種との生存競争において社会(群れ)を作ることを選択した意味でもある。そんな当たり前で自然なのことが戦後まで「発見」されていなくて、しかもいまだ広く知られているとは言えない。

それもそのはずで、本を探してみてわかってのですが、一般書が見当たらないんです。フロイトやラカンの精神分析、それからアドラーがブームになって関連の一般書はたくさん世に出ていますが、愛着理論に関してはその手の本がないんです。見つけたのは、『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』『愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる』(いずれも岡田尊司著・光文社新書) で、これらの本の参考文献を探した。専門書ですが、山梨県では県立図書館にもない。県立大学にあるというので地元の図書館からリクエストしたものの一向に届かず、時間がなくて何冊も高価な専門書を買い込むハメになりました。プレミア価格の古書しかないのもあったり(泣)。

そんななかで興味深かったのは、ピーター・フォナギー著の『愛着理論と精神分析』です。

なにが興味深いかというと、このふたつは実は仲が悪い(笑)。同じ「人間という現象」を異なる視点から見ているだけのはずなのに、なぜかだけというわけにはいかないんですね。もちろん「仲の悪さ」について書いてあるわけではなく、タイトルからわかるようにこのふたつを統合しようとする試みの書なんですが、その試みがかえって仲の悪さを透けてみせるという皮肉な面白さ。

このあたりはそれこそ精神分析の対象になるだろうと思います。そしておそらく、その理由は愛着理論の「(再)発見」が遅れた理由とリンクしている。「再発見」というのは、ほんとうは識っていたはずのことだと思うから。ということは、忘れていったことには、理由があるということです。ここいらあたりは、いずれ書いてみたいと思っています――って、そういうことを書いたんですけれど。投稿した文章には。マックス・ヴェーバーの言い方で言うと、「脱呪術化」が進んだということ。


感じるままに。