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犬が逝った。

我が家で暮らしていた二頭の犬のうちの一頭が逝ってしまいました。もう先週のことです。以来というより、犬が逝く少し以前から、いわゆるペットロスという感情を味わっています。

逝ったのは、母娘のうちの娘のほうです。
名前は「ブー」と言いました。
満で13歳。
未亡の母は「フク」です。

 (タイトル画像の右がブーです)

ブーは、先々週までは、すこぶる元気でした。
消化器系があまり丈夫ではない子で、便秘気味になって少し食が細くなった。この子にはよくあることなので心配はしていなかっ。それが、先々週の週末あたりから動けなくなってしまった。息が荒くなって苦しそうで、月曜に獣医へ連れて行くと心不全という診断。そして翌火曜日には、さっさと逝ってしまいました。手間を掛けさせてくれる猶予も与えてくれずに。


ブーが生まれたときのことはよく覚えています。

そのときは半野良だったフクが身籠もってしまい、いよいよ産気づいて我が家の床下に潜り込んで出産の体勢に入ったんです。それを引っ張り出して、物置の隅に藁を敷いてやって居場所を作ってあげました。フクはそこで三匹の仔犬を産んだ。その中に一匹が、ブー。他の二匹はもらってくれる人がいたのですが、ブーは売れ残った。三匹のなかで一番不細工に太っていて、仔犬をもらってくれた人のひとりが「こいつはブーだな」と発した一言で名前が安易に決まってしまいました。

和歌山県の南部、本宮町というところで暮らしていたときのことです。

売れ残ったブーを手元に置くことを決めたとき、ぼくたち夫婦と二頭に犬は家族になりました。
和歌山から山梨に移り、新潟県や北海道で暮らしたこともありましたが、もちろん一緒でした。和歌山から山梨に移るときには、犬たちは置いていこうかと考えたこともありました。引き取ってくれるという人もいたし、犬にとっての住環境は和歌山の田舎のほうがずっと良いに決まっていたし。でも、家内が首を縦に振りませんでした。

(真ん中がブー)

家族とはなにか。
寄り添って暮らす小さなコミュニティが家族です。
血のつながりは大切だけど、必須ではありません。
血のつながりどころか、同じ生物種である必要すらない。
一つ屋根の下で過ごすことも必須ではない。
その存在を気にかけ手間をかけ、また、気にかけてもらい、手間をかけてもらって、ともに〈生〉を共有することで個体の群れは家族になります。

家族を育んでいく〈気〉というのは、実に不思議なものです。実体は定かではない。でも、効用は明確にある。明確にあるとはいっても、言語化するのは難しいのですが。

〈気〉があるのとないのとでは、感じ方がまるで違います。「死」という現象はその差異を明瞭に示してくれる。変な言い方ですが、「死」は〈気〉を感じさせてくれる絶好の機会だとも言える。

先週火曜日の今頃、ぼくは冷たくなったブーのからだを撫でてあげていました。「撫でてあげる」という言い方は客観的にみればすこしおかしいのですが、しかし、そう言いたい。逝ったのは15時くらいのことで、この時間にはもうすでに硬く冷たくなっていたブーのからだなのに、撫でている手の感触からはすでに生命の鼓動は伝わってこないのに、それでも確かにぼくはブーのいのちの感触を感じていた。「ブーちゃんのからだ、冷たい」と言って泣いた家内も同様の感触を持っていたはずです。〈いのち〉の感触を未だ感じるからこそ、冷たさが際立つ。冷たさが〈いのち〉の実感を際立たせる。

〈気〉の効用とは、〈いのち〉の実感を感じさせること。〈気〉が通えば、そこの〈いのち〉の実感が生まれる。〈気〉が通わなければ、心臓が鼓動し血が通っていても〈いのち〉を実感することはない。逆に、〈気〉が通っていれば、身体感覚は「死」の情報を持たしても、そこには〈いのち〉の実感を感じることができる。

〈気〉の通わない遺体の冷たい感触は、豊かな現代の日本では、その気になればすぐにでも感じることができます。冷蔵庫を開けて、そこに「肉」の買い置きがあるなら触れてみればいい。なければスーパーにでも行ってみればいい。冷たい「肉」から感じる身体感覚は〈気〉の通わない遺体の感覚とほぼ同一のもののはずです。客観的には、ですが。


かつて樵をやって暮らしていた頃、フクとブーはその自分に我が家の家族になったわけですが、ぼくは、しばしば野山のケモノを狩りって「生命」を奪い「肉」にするということをやっていました。なので、「生命」が「肉」に変わっていく刹那の感触というものを、ぼくは若干ですが、知っています。

それは「刹那」です。「瞬間」ではない。ある程度の「間」がある。とどめの一撃を加えると、その瞬間から生命が喪失していくという現象が始まります。鳴き声が途切れ、目から光がなくなっていく。ある程度の大きさのある獲物の場合は体が冷たく硬直するのに若干時間がかかりますが、身体の温度は関係がない。目に光がなくなり、心臓の鼓動が止まって「死」を感じれば、その物体はもはや生命ではなく「肉」へと推移する。「肉」となった物体は、食べやすいように、美味しく食することが出来るように解体される。

ブーが逝ったときにも同様の現象が見られました。身体の力が抜けて失禁し、目から光が失われていった。心臓の鼓動も止まっていった。けれど、その刹那は、ぼくのこれまでの体験とはまったく違ったものでした。「死」を感じられる瞬間がやってこない。

つくづく思います。人間というものは、なんと得手勝手なものなのか。“都合”という言葉を使っていうなら、オノレの都合で「死」すらも改変してしまう。オノレをオノレたらしめる関係にある存在は、その「死」ですらも容易に受け入れることができない。通った〈気〉が身体感覚すら改変してしまいます。

けれど「勝手」こそが、人間というものの〈生〉のありようだろうと思います。

母犬のフクは、ブーの「死」を察知していたようでした。ある瞬間に、フッと、フクのブーへの接し方が変わった。死臭を嗅ぎ取ったのかもしれません。ぼくたちはフクの様子の変化によって、ことの重大さに気がついたのでした。

フクのこの変化も〈気〉のありようだと言っていいのかもしれません。だとするならば、犬と人間では、ありようはずいぶん違うと言わざるを得ない。人間の〈気〉は動きは鈍い。

この〈気〉の動きの鈍さ、身体感覚と〈気〉を経由した実感とのタイムラグが、どうやら「欲望」というものの正体のようです。ぼくは、ブーの生の継続を望んでいた。家内もです。それは家族なのだから当然のことではある。しかし、その願いはどこか行き過ぎて「欲望」になっていたようです。「欲望」が〈気〉の動きを鈍くして、ブーの異変の察知を遅らせたのだと、なんとなくですが、そんな気がします。

〈気〉の振る舞いは〈生〉の動きそのものです。〈気〉の動きによって感覚が変わり、感情が生まれる。喜怒哀楽の感情は〈気〉の動きで生じる。その〈気〉の動きを観ることできれば、喜怒哀楽することがそのものが〈悦び〉になる――。

ブーが逝ってから一週間。こんなようなことを考えていました。

感じるままに。