「それ」が許されるとなぜ思うのか?

前回から引き継いで『センス・オブ・ワンダー』について書くつもりでいましたが、予定を変更します。

気が変わったのは、

を拝見したから。
こちらのノートから感じられたのは

( ↑ 額縁付き!)

というやつです。

他者の勇気

に共鳴するのですが、その共鳴は自身の勇気

に裏打ちされています。


勇気は勇気の者を奮い立たせると同時に、勇気なき者の

「怯懦」

を浮き彫りにします。

怯懦とは、「それ」が許されると思い為し、「それ」を為すために「立場」を確保し利用すること

「それ」にはいろいろな種類の行為がありますが、樫尾キリエさんや高浪 衣有の身に降りかかった「それ」はその典型でしょう。

「それ」は、降りかかった者からしてみれば理不尽極まりないものだけれど、振りかける者からすれば自身に与えられた当然の権利であるかのように感じられているという、矛盾した性格を抱えています。理不尽が生まれるのは、振りかけられる者が「しっぺ返し戦略」を採ることが難しいという意味で弱者であるということ。

弱者は言葉を持たない。あるいは持てない。


持たないこと、持てないことを利用して、さらには封じることさえして、振りかける者は「それ」を為そうとする。

そう考えればSNSというツールは弱者の武器。「#Me Too」はSNSという武器を手にしたことで為しえた「しっぺ返し」です。

ネットの最大の特徴は、技術が社会の制度と空間・時間を超えたことです。個人が自由に繋がることができるようになって、制度の外に声をあげることができるようになった。

この自由は反面で混乱をもたらしています。そのことをもってネットの自由を論う者も多いけれど、この議論は論点がズレているとぼくは常々感じています。なぜなら、その混乱のもとになる【毒】は、ネットの自由が生み出したものではないから。ネットの自由は【毒】をさらけ出しているのであって、【毒】を生み出しているのは社会の【不自由】のほう。

このことは「#Me Too」を見てみれば明らかなこと。

この【不自由】が「それ」の源泉です。

怯懦の者は、ネットの自由で溢れだした【毒】を無秩序と見なす。確かに一面ではそうだけれど、その態度では【毒】の発生源は見えない。表面に現れ出た【毒】にだけ注目して、抑えこもうとする。この態度は「それ」を為すための「(社会秩序の)利用」です。

ヒトの子どもは、人間になるにあたって、その「利用法」を教わります。そのために【勉強】をして、「それ」が為すことができる「立場」を手に入れることが社会の中では有利だと教え込まれる。だから、「それ」を為すのが当然だと思い込んでしまうのも当然です。


振りかけられる者からすれば迷惑千万極まりないことだけれど、振りかけるものからすれば「それ」はそれで、実は切実なことであったりします。

「それ」は生存戦略だから。教えられたことに忠実に従うことは、「しっぺ返し」をすることが(まだ)不可能な子どもにとっては、それしか採用することができない止むに止まれぬものだからです。

「それ」が怯懦である所以は、「それ」が止むに止まれぬものであったことを認めることがないという点にあります。止むに止まれぬものであったことを認めないで済むようにするために、人間は【アイデンティティ】なるものを切望する。社会的地位、名誉や金銭の所有。SNS上の認知欲求もこの類いかもしれません。この種の【アイデンティティ】を手にした人間は、勇気を嗤う資格を手に入れたと思い為すことができるようになります。




「それ」がどれほど止むに止まれぬものか。どのようにやむをえないものなのか。以下、ぼく自身の自慢(自虐?)話をさせていただきます。

車に乗ることを止めた、という話です。

免許証は所持しているので、いちおう運転することはできます。家内が車を所有しているので、我が家に車がないというわけではない。ただ、ぼくはもう、自分でハンドルを握ることは極力やめようと考えて実践しています。

理由は、なぜ「それ」が許されると思うのか? という問いから発しています。

現在ぼくが暮らしている富士吉田という町は、一般の感覚では、車がないと生活が難しい場所です。東京のように、車がなくても生活ができる、無駄にさえなるという条件の町ではない。けれど、過疎が進んだ地域のように、なくては暮らしが成り立たないというほどでもない。生活に必要な物資は徒歩圏内で十分に手に入る。ネット通販なども利用する。収入を得る職場も条件を選ばなければ、いくらでもある。その気になれば、なんとでもなる。

この場合の「それ」とは、たかだか自分が移動するのに自分の10倍以上の重量があるような機械を動かしていいのか? という問いです。なぜ、「それ」が許されると思うのか?


いきなり、なぜ「それ(車の運転)」が許されると思うのかと問うても、この問いを発する意味そのものはなかなか理解されないと思います。その自覚がぼく自身にもあるので、他人にこの問いを向けたことはありません。ネットで発してみたことも、初めてです。

「それ」が許されるのは、あまりにも当たり前だと思われているから。

けれど、別種の「それ(性の問題)」を介して問えば、「それ(車の問題)」と「それ(性の問題)」が、同じ形式(構造)をしているということが理解してもらえるのではないか。

「それ」は、「それ」が当たり前だと思っている人間には、何らの疑問もないこと。疑問があることの方が疑問であるような性質のことです。そして、「それ」の被害者は声をあげられない。もしくは言葉は持たない。けれど、被害は確実に「そこ」にある。ただ見過ごされているだけ――いえ、目を逸らされているだけです。

「それ(性の問題)」の当事者には、この問題がただ見過ごされているのではなく、もっと積極的に目を逸らされているのだということを身を以て感じているはず。だからこそ「(加害者は)なぜわからないのか」と怒りを覚えることになるし、共感する者は怒りも共有することになります。

「それ(車の問題)」についても、被害はあります。

このことは知られてはいるし、自身の暮らしと関係していることも理解はしているけれど、でも、自身の暮らしと直接には関わらないこと。今、自身の【アイデンティティ】を揺さぶってまで問題にしなくてはならないことではない。だから、目を逸らしていられる。

目を逸らしていられるということは、知っていても識らないのと同じです。「それ」は、識られていなければ何の力にもならない。むしろ、中途半端に知られいていることは問題を拗らせてしまうことになることが多い。


ぼくが車に乗ることを止めたのは、樵をしていた経験がもとになっています。木材は資源だけれど、木はそうではない。木を木材にするのは殺生というものです。

ヒトは殺生をしなければ生きていない。だから、殺生をする権利は生きている限りはある。けれど、人間の都合で好き勝手に殺生してよいわけではない。

こんなことも言葉にするのは簡単です。「相手の望まない行為は犯罪です」というのと同じで。無力なものです。

「それ」を識る機会が与えられず、むしろ識らないで済ます方が生き残るのに有利であるなら、ヒトはその方を選択するに決まっています。そうしてヒトは人間になっていく。それが「人間の条件」というものです。もうこれは、どうしようもない。

人間になってしまうと、「どうしようもない」ことが「やむに止まれぬこと」になってしまう。この転換をぼくは怯懦と呼びます。そのように呼び変えて、積極的に目を逸らすのです。

車がなくても生きていけるはずだけれど、車がないと「どうしようもない」から車を運転するのは「止むに止まれぬ」ことだと思っている。それどころか、車を運転することがいかに素晴らしいことか、その利点はいくらでもあげることはできるでしょう。「英雄、色を好む」といったふうに。

この「どうしようもなさ」は、こういったあらわれ方をしたりもします。


「どうしようもなさ」に対抗するのに「しっぺ返し」は有効な方法です。しっぺ返しを受けて始めて、「知る」ことが改めて「識る」に変わるということはよくある。そうでもないかぎり【アイデンティティ】というものはそう簡単に揺るぎはしません。

「しっぺ返し」は、相手が物言わぬ存在であっても為されます。いつか必ず、為される。【歪み】が溜まれば溜まるほど、その反発は大きい。


なんのことはない、全部、つながっているんです。〈つながり〉の中では「それ」が許される理由など、どこにもありません。

つながりが感じられないから、感じない方が有利であるように教え込まれたから、「それ」が許されると思い為し、「それ」が許される理由を探し求めて死に物狂いで生きている。社会のなかで「成功」し「立場」を得ると、「それ」が許されると思うことができる。

みんながそう思い込んでいるから「それ」が許されている。いかして自分には「それ」を許し、他人には許さないかという競争を繰り広げるのは、現在の【システム】の作動に沿った行動です。


こうした【システムに沿った不自由】から逃れるのは、言葉にするだけなら簡単です。

〈つながり〉を識ればいい。

〈つながり〉を識ったときに湧き起こる感触が「Wonder」です。

ということで、次回、『センス・オブ・ワンダー』に続きます。






感じるままに。