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負けていない人

今回は、なにかと話題を振りまく前澤友作氏の話をしてみたい。

が、その前に、ぼくの昔話をさせていただこう。樵をやっていた時代に仕事と暮らしとを教えてくれてた、爺さんたちの話。

彼らは「負けていない人」たちだった。


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山仕事の休みに土日は関係がない。雨が降ると休みになる。決まった休みは、正月、お盆、春秋の彼岸、山の神の日などの他に、集落のイベントが催される日、鮎の解禁日、狩猟の解禁日など。イベントもなく、天気がいい日が続くと適当に休みをとった。

鮎や狩猟の解禁日が休みになるのは、爺さんたちが心待ちにしているから。落ち鮎の季節になると梁(やな)を造作しなければならないからと、仕事が休みになることもあった。彼らは自然とともに暮らす人たちで、「稼ぎ」はもちろん大切だけれど、自分たちの暮らし(共同体を維持する「仕事」)を大切にしている人たちだった。

そんな爺さんたちは一方で、雨が降るとよくパチンコへ出かけた。山仕事もできなければ畑仕事もできないからという言い訳だったが、ぼくには奇妙でアンバランスな振る舞いに感じられていた。

パチンコに行けば勝つことだってある。しかし、おしなべると負ける。負けるようにパチンコはできている。だからパチンコ屋は儲かる。負けるのはアタマでは承知でも、それでも行くのは射幸心を煽られて気持ちの制御が気が利かなくなるから、すなわち「負けている」からだが、それが奇妙だった。樵の爺さんたちは、今風の言葉でいえばきわめてQOLの高い人たちだ。彼らの暮らしの中のどこに、しばしば命懸けにまでなる山仕事で得る稼ぎを、パチンコに費やしてまで追い払わなければならないモヤモヤがあるというのだろうか?

ぼくの中に生まれた奇異感は、やがてひとつの解答らしきものを得ることになった。奇異を解消する言葉、それは「蕩尽」という言葉だった。その言葉は、若かりし頃に流行に感化されて読んだことがある一冊の本に記されていたものだ。

ぼくがいま、一緒に仕事をしている人たちは「パンツをはいたサル」である。心に浮かんだ言葉に、ぼくは自分で納得し、満足した。

QOLが十分以上に高いと、過剰は蕩尽される。
ヒトという生き物はそのようにできている。

お金を得るための稼ぎ、樵仕事から働く悦びを得る。これはぼくが爺さんたちから頂戴した最高の果実だ。その悦びは、自身の身の丈の暮らしを支える共同体の仕事の中にもある。稼ぎや仕事の合間に出かける山や川も悦びを提供してくれる。文明化した人間の目から見れば「趣味と実益を兼ねる」と言いたくなるが、「パンツをはいたサル」からしてみれば趣味も実益もない。ただ、当たり前に悦びがあるだけ。

そんな「パンツをはいたサル」がパチンコをする。だとすれば、それは(人間としての)意味がないことに(サルとしての)意味がある蕩尽であろう。

蕩尽でパチンコに余剰(お金)を費やすサルは、負けてはいない

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ぼくが前澤氏に感心を抱いたのは、ここnoteに投稿された記事がきっかけだった。

それまでも前澤友作の名を知らなかったわけではないが、それはゴシップなものでしかなく本気で関心を引く名ではなかった。月旅行を企てる純朴な成金や有名芸能人との浮名。さまざまなフィルターを経由することで着色されたイメージである。その点、前澤氏自らの記した文章は他人のフィルターをしない。経由するのは、自身の裡にあるフィルターだけ。

ぼくのフィルターに直接触れた「前澤友作」は、これまた奇異な感じだった。彼の提示した話題がぼくの関心のど真ん中だったことには大いに惹かれたが、それは自身の関心の反映だ。他者への関心ではない。直接接することがない「前澤友作」の奇異な感触はすでにぼくの中に存在するイメージ、すなわち、樵の爺さんたちのものへと近づいていった。

十分以上にQOLが高く、結果、労力を費やして獲得したはずのお金を蕩尽へと廻すこととができる。お金をなくすことまで考えが及ぶ、あるいは蕩尽に社会実験という意味づけを施すところは爺さんたちとは異なるけれど。つまり、「パンツ」をはいている。

が、負けていない
何が、何に?


前澤友作氏はさまざまな批判、批評が寄せられている。そのどれもがQOLが何かに「負けている」ものだとぼくには感じられる。

「パンツをはいたサル」にとって、蕩尽に合理的な意味はない。それは言うなれば、(ヒトとしての)アルゴリズムである。ヒトがヒトである以上、アルゴリズムは作動する。

そのアルゴリズムに、たとえばポトラッチ型支配といったような「合理的意味」を付与することは、もうすでに負けている。「パンツ」に負けているのである。

樵の爺さんたちには身の丈に合った共同体があった。自身が知悉している暮らしがあった。そのことが彼らのQOLを高め、稼ぎで得た金銭を蕩尽へと廻すだけの心の余裕があった。翻って、身の丈以上の希望を強いられ、知悉することが甚だ困難なシステムの中で暮らさざるをえないぼくたちは、QOLを高めることが非常に難しい。

そんなシステムの中だ前澤氏は、奇跡的に十分以上のQOLを得ることができているのではないか。もちろん、それだけの能力はあるがあってのことだろう。幸運にも恵まれたのだろう。

秀でた能力まで含めた幸運に妬み嫉みを覚える心は、ぼくにだってある。一方でぼくには、爺さんたちから賜った働く悦びの感触もある。「労働者が楽しめば楽しむほど、生産性が上がり、余裕が生まれ、社会が明るくなる」とナイーブに言い放つ「前澤友作」は、

ぼくの裡にある「負けたくない」という気持ちを刺激する。


システムのなかでは、よほどの能力と幸運に恵まれない限り負けは必定である。お金を稼いだから勝ちではない。勝ち負けに囚われている時点で負けている。QOLを「パンツをはいたサル」にまで高めることができなければ負けていないとは言えない。

もっとも合理的な人間には無意味だとしか思えない蕩尽が発動したとしても、勝ちではない。ただ負けないだけ。負けてさえいなければヒトは、人や自然に対する愛や感謝や敬意を自ずから生み出していく。すると、世界平和になる。ヒトがヒトや自然と、勝ちもせず負けもせずに均衡する。


現代の「パンツ」はあまりも大きすぎて、数多の凡人には到底はきこなせるものではない。月旅行に行くくらいのスケールがなければ履きこなすことができない。



感じるままに。