「バランスが大切」なのではなく
”バランス”という言葉が、今、ちょっとしたマイブームです。
先日、こんな文章を書きました。
自然治癒力とは〈生きる力〉のあらわれ。動的平衡である生命は、不思議なことに、環境に対応しつつ、常に最適のバランスを探って変化をしていく。傷ついた心身が癒えるのは、最適バランスを保とうとする動的平衡の力、すなわち〈生きる力〉です。
読み返してみて、言葉足らずだと思いまして。これだけだと「バランスが大切」だということになってしまいますよね。
〈生きる力〉というのは、「バランスを保つ力」ではなくて「バランスを保とうとする力」。わずかな言葉の違いだけど、この違いは大切。”保つ”だと静的平衡だけど、”保とう”なら動的。
そもそも、静的な平衡などというものはありません。そうしたものを想像することは可能だし、それが「言葉の力」だったりするわけだけど、実際はそんなものはない。物理の世界ならあるかもしれないけれど、生物の世界にはない。
環境は常に変化しているわけだから、最適点も常に変化します。常に変化する最適点を常に追いかけているわけだから、常に「保とう」とする力が働いている。
もっとも、ここまで言葉を加えると「保つ」でも良いのだけれど。
季節は今、晩秋を通り越して初冬にさしかかっています。冬は空気が乾燥して身体が渇いていく。身体もまた「冬のからだ」になっていきます。
そうした現象は身体にある自然の営み。なので特に意識する必要があるではない。ないけれど、意識することができないではない。人間はそうしたことができる生き物だし、意識することが必要な生き物だったりします。
朝の渇いた身体に水分を補給する。この際にオススメしているのはお白湯ですが、理由は、身体を温めることができるというのはもちろんのこと、お白湯の方が常温の水よりも感じやすいからです。身体が潤っていくという感覚を感じやすい。
身体は放っておいても、最適の水分バランスに身体を保とうとします。特に水分を摂らなくても、排泄する水分の量を調節したりしてバランスを保とうとする。冬はトイレに行く回数が減って仕事をするには都合がよいなんて、考えている人も多かろうと思います。
それはそれでよいことです。が、逸失利益といった考え方をするならば、「感じる機会」を失ってしまっていると言えるかもしれません。
バランスは、「バランスが大切」なのではなくて、「バランスを感じることが大切」なのです。
身体は自ずからバランスを保っていくものだけれど、身体の「自ず」からにお任せになってしまうと「バランスを(自ら)感じる」機会は逸失して、「保とう」とすることが自身(意識)のものではなくなってしまいます。
「感じること」は、意識しないと感じることができません。「感じること」を放棄してしまうと、(これまたプチ・マイブームの)エーリヒ・フロムの言葉を借りるならば
自分のなかに自己がしっかりあるという確信を失うと、「私は私だ」という確信が揺らいでしまい、他人に頼ることになる。そうなると、「私は私だ」という確信が得られるかどうかは、その他人にほめられるかどうかに左右されることになる。
「私は私だ」といったようなことは、”確信”はできても、”確証”は提供することができません。
ちなみに、「確証の不可能性」から「確信の可能性」を探って見せてくれたのが平野啓一郎さんの『ある男』でした。
ということで、これからの季節はお白湯を飲むようにしましょう ♬
感じるままに。