役に立つ物語、役に立たない物語

〈物語〉の話を続けます。

ホモ・サピエンス――と書くのはアレなので、“ヒト”と書くことにします――は、〈物語〉が大好き。ヒトには〈物語〉を紡ぎ出していく能力があって、生き物はみな、自身が備えている能力を発揮させることが大好きだから、すなわちアルゴリズムだから。


ヒトが〈物語〉を大好きなことは、子どもたちを見ていればよくわかります。子どもは言葉を覚えると、瞬く間に〈物語〉を語り始めます。大人が教えたわけでもないのに、いつの間にか〈物語〉を語っている。

もちろん、絵本やらなにやら、〈物語〉を聞くことも子どもは大好き。〈物語〉の読み聞かせを繰り返しねだられるのは大人にはなかなかの苦行ですが、やがて自ら本を読み始め、そこに留まらず自分で〈物語〉の創作まで始めてしまうのに接すると、その能力に舌を巻くことになる。

ノーム・チョムスキーという学者は、そうしたヒトの〈物語〉創作の能力は本能であると主張している――というのは、ぼくの曲解ですが。


最初は子どもが物語生成能力を発揮することを好ましく感じていた大人も、やがて不安と不満を覚えるようになります。〈物語〉は確かに豊かな心を育む。けれど、現実は厳しいのだと、子どもの行く末を慮る。


サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかと言うと、これは確信をもって言えるが最初から信じてなどいなかった。

幼稚園のクリスマスイベントに現れたサンタは偽サンタだと理解していたし、お袋がサン タにキスをしているところを目撃したわけでもないのに、クリスマスにしか仕事をしない ジジイの存在を疑っていた賢しい俺なのだが。

はてさて、宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織やそれらと戦うアニメ的特撮 的漫画的ヒーローたちがこの世に存在しないのだということに気付いたのは、相当後にな ってからだった。

いや、本当は気付いていたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ
俺は心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織が目の前にふらりと出て きてくれることを望んでいたのだ。

しかし現実ってのは意外と厳しい。

世界の物理法則がよく出来ていることに感心しつつ、いつしか俺はテレビのUFO特番や 心霊特集をそう熱心に観なくなっていた。
宇宙人、未来人、超能力者?そんなのいるワケねーでもちょっとはいて欲しい、みたいな 。
最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。

中学を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。

俺はたいした感慨もなく高校生になり――、そいつと出会った。

ご存知、『涼宮ハルヒの憂鬱』冒頭のキョンの台詞です。「世の中の真実」というものを、かなり正確なところを突いているように思えます。


でも、ど真ん中ではありません。

「本当は気づいているが、気づきたくない」というヒトの心理は、さまざまな〈物語〉をふるいに掛けます。多くの〈物語〉は妄想・空想だとして、ヒトの心を和ませるための消費へと回されてますが、中にはふるいの中に残るものもある。

残った〈物語〉は役に立つものだと見做され、今度は集団心理が働いて「気がついてはならない」ものとなる。そうした〈物語〉は【虚構】という名で呼ばれています。

ヒトには〈物語〉を紡ぎ出す能力があり、その能力を発揮することそのものに意味が見出されるのとちょうど同じように、【虚構】もまた、【虚構】が維持されることそのものに意味が見出されます。そして、【虚構】が【虚構】として機能することにより、「気づきたくない」という集団心理も強化されます。気がついてしまう人間、あるいは気づきたくないという心理を共有しない人間は生きづらくなるほどに。


たとえば、“結婚”という【虚構】です。

少し前までは、結婚を虚構と呼ぶことにすら大きな抵抗感がありした。迂闊に言ってしまっおうものなら、白眼視されてしまうことを免れなかった。現在は抵抗感こそ小さくなったとはいえ、それでもまた結婚という【虚構】は大きな力を発揮しています。それが証拠に不倫という行為は大きなバッシングを受けることになる。

少子化、そしてセックスレスが人類の存亡を脅かしつつある現在、どのような間柄であろうとも男女が交合し、子どもが生まれるということは望ましいことのはずなのに。そうした主張はラディカルに過ぎると指弾されてしまいます。ラディカル過ぎるのは秩序を乱し、人間たちが依って立つ集団心理の基盤を掘り崩してしまうからです。



〈物語〉が役に立つのか立たないのか、その振り分けに明確な基準があるわけではなさそうです。とはいえ、基準らしきものはありそう。それは、社会分業の役に立つという基準です。

結婚には一夫一妻制以外にもさまざまな形がありますが、どの形も社会分業の形と密接に関連しています。血筋で社会統治の役割を担っている人間には、血統の存続を確実なものにするために一夫多妻制が採用されるのが常だし、農耕作業を役割とする人間たちは一夫一妻性がもっとも能率がよい。



貨幣の発明は、広域で社会分業を可能にする画期的なものでした。

貨幣は文字とともに生まれました。というより、貨幣もまた文字の一種です。貨幣が他の文字と区別されるようになったのは、それがもっとも〈物語〉を単純化させることができる発明であったという点。貨幣は物語を端的なところにまで圧縮し、物質化し、遠方にまで(〈物語〉の)価値を伝えることができるツールとなり、ゆえに、通常の手段では言葉が届かない広域での社会分業が可能になった。

貨幣以外の文字もまた〈物語〉を伝えます。とはいえ、圧縮度は貨幣のように高くはない。よって、文字が広い地域へと伝播していくようになるためには技術の進歩が必要でした。

生まれたばかりの文字は、石版や粘土板、竹簡などに記されました。が、これらは嵩張るので、遠方へ持ち運びするのが難しかった。やがて紙が発明され、活版印刷技術が発明され、文字は広く深く人間たちの間へと浸透した。

そうした技術進歩の影響で新しい形の【虚構】が生まれました。すなわち、プロテスタント、資本主義、ナショナリズムなど。


現代は技術がさらに発達して、複雑な〈物語〉がきわめて小さなコストで広く深く伝播させることができるようになりました。ここnoteは、〈複雑〉なひとりひとりの物語を小さく深く共有することができる――もちろん、従来通り「大きく浅く」も可能です――プラットフォームのなかのひとつ。それも〈物語〉の特性がよく活かされているプラットフォームだと言えます。

けれども、社会には未だ〈物語〉が社会分業に役立つかどうかの基準によってふるいに掛けられるメカニズムは強力に機能しています。noteとても、そうしたメカニズムが機能しているシステムの上に成立しています。


社会分業はヒトが生存する可能性を広げ、人間を物質的に豊かにしました。が、人間は、物質的に豊かなだけでは満足しえなくなってきてもいます。社会分業を機能させる圧縮されてしまっているがゆえに容易に共有でき、共有できてしまうがゆえに多彩で複雑な〈物語〉を分断してしまう【虚構】の副作用に大きなストレスを感じるようになってきている。

社会分業は今後も必要なことは、まず間違いないと言えます。社会分業が崩れると、ヒトは滅亡まではしないにせよ、大きく個体数を減らさざるをえません。それは自然生態系には好ましいことかもしれませんが、ぼくたちにとっては忌むべきこと。

その忌むべきところに、人間は自ら生み出すストレスによって追い込まれようとしている気配がある。


社会分業は人間の技術の進展にともなって形を変えてきました。ならば今後も変わっていくでしょう。新しい技術を活かし、活かされる形へと変わっていくはずです。

多彩で複雑な〈物語〉が遠く広く伝播するようになったのであれば、社会分業を支える【虚構】の形も違ったものになるはずです。それはすなわち、従来の「役に立つ、立たない」の基準が変更されるということ。

どのように基準が変わっていくのかを空想するのもまた〈物語〉。ワクワクする大きな〈物語〉です。

感じるままに。