クレタ人の嘘は大岡越前のお裁きで

ネタ話です。

“クレタ人”とグーグル先生に問いかけてみると、

  自己言及のパラドックス

と答えを返してくれます。
クレタ人は嘘つきで有名という話ではなくて、
クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったというお話しです。

クレタ人がクレタ人について言ったというところがミソで、
堅苦しく「自己言及」なんて言います。
その「言」が嘘か本当か判別できないので「パラドックス」です。

クレタ人が嘘つきなら、クレタ人が嘘つきだと言った「言」が嘘になって、クレタ人は嘘つきではなくなる。
クレタ人が嘘つきでないなら、その「言」は本当だから、クレタ人は嘘つきだということになる。

なんだかバカバカしいお話しですけど、ずっと昔から真剣に議論されている話題です。


さて、次。大岡裁き。
こちらはグーグル先生はすぐに望む答えを出してくれませんでしたので、僕が答えます。

「三方一両損」

ある男が三両入った財布を落とした。
別の男がその財布を拾った。
で、ケンカになった。
「その三両はオレのものだ!」
そこに大岡越前が割って入った(んではないんだけど)――

結果はご存知ですよね?


話を最初に戻して、クレタ人は嘘つきか否か。
こういう問題こそ大岡越前に裁いてもらったらいいと僕は思います。
このお方は、裁判官のくせに“枠組み”とかへっちゃらだから。
枠組みに囚われない判断を下してくれるでしょう。


クレタ人の問題がパラドックスになってしまうのは、クレタ人を記号化してしまったからです。
クレタ人を嘘つきだと言ったクレタ人は、当たり前の話ですが、自分以外のクレタ人について言っているはず。
なのに、この話をパラドックスとして扱いたい人は、同じ「クレタ人」という記号で括ってしまった。その枠組みさえ外してしまえば、こんな話はパラドックスでも何でもありません。

枠組みというのは、使い方次第でいかようにでもなります。
三方一両損の話だって、枠組みを使えばパラドックスに仕立て上げられます。

三両は財布を落とした男のものか、拾った男のものか。
三両は分割できない枠組みのなかへ放り込んでしまうと、
例えば三両の値がつくクレタ人(人身売買!)だとすると、
問いは一気にパラドックスへ突入します。

いくら大岡さんが一両足したって、人間は割れませんからね。


大岡裁きは最悪の判決だという話もあります。
そういう話になるのは、法治主義という枠組みの中での話し。
人治主義なら名判決。江戸時代の話ですしね。


枠組みをそのままにクレタ人の話を難しく(普遍化)していくと、

  ゲーデルの不完全性定理

というところへ辿り着きます。
(中身は勝手に調べて下さい。)

ゲーデルという変人さんが発見したこの定理は、
ある種の人々の衝撃を与えます。

論理的に突き詰めていけば、
どんな問題についても真偽の判定ができ、
それを積み重ねていけば、
いつかは真理に辿り着けると信じていた人々。

おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない。
ひっくり返せば、理論体系を完結させるには、他者が必要。
枠組みを壊さないと理論は完成しない。

バカバカしい話も、ここまで突き詰めることができれば大したものです。


ゲーデルの不確定性定理をもって神の存在は否定されたという人々もいたようです。
僕は逆もありだと思います。

この世界には自己完結する理論はない。
すなわち、世界は完璧ではない。
だから神は存在しない――と。

なるほど一理あります。
一方で、

我々の世界を完璧するには、我々の世界の外にいる他者
すなわち超越神が必要――と解釈することも可能ですよね。

神は存在しないと思いたい人は前者を。
存在していると思いたい人は後者を。
それぞれ採用するだけのはなしだろうと思います。


枠組みの破り方は、その枠組みを破る人の思いで異なってきます。
大岡越前の話に戻ってみますと、
“三方一両得”というんだってあります。
(どこかの奇人がそんな話をしましたが、それとは違います。)

財布は落としたんだから、三両はなかったもの。
なかったはずの三両を拾ったのだから、三両はなかったもの。
大岡越前にとっても三両はなかったもの。
だから、三人で仲良く三両を分配すれば、みな一両ずつの得になる。

大岡性善説のネタ話では、この論理(?)は、三方一両損の話を聞きつけた性悪人が一両をせしめようと企んで狂言を舞ったことへの鉄槌のお話になりますが、
別に最初から三方一両得でもよかった。
誰をえこひいきしたいのか、でお話しは決まってしまうということ。


世界は人間が決めているんですよ、というお話しでした。



感じるままに。