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大人になったら誰に愛情を求めればいいのか?

白滝みえさんに触発されて、記事を書いてみます。

みえさんが綴っておられる微笑ましい現象ですが、これは「愛情の回路」というやつが順調にまわっていると生じます。ナンパされたのはみえさんの娘さんだということだそうですが、ナンパした方もされた方も、どちらもしっかり〈愛情の回路〉と回っていたのだと思います。

そう、愛情とは回路なのです。

恋する女性が美しくなるといった現象も、愛情が回路であるがゆえに生じます。波及効果を及ぼすのです。

ところが、昨今はなかなか〈回路〉をうまく回せない人が多い。かく言う私も〈回路〉を上手く回せるようになったのは、ここ4、5年のことです。

大人になったら誰に愛情を求めればいいのか?

こうした問いは、〈回路〉が上手く回せないがゆえに生まれます。

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愛情は人間が人間らしくあることの基礎です。
幼少期に大人からたっぷり愛情を注がれていないと、大人に成長しても愛情を要求する人間になりがち。愛情を求めるがゆえにかえって他者を遠ざけてしまう、あるいは傷つけあってしまうという皮肉な結果になりがち。

こうした現状を〈回路〉という言葉を用いて表現するならば、やはり「上手く〈回路〉を回せない」とするのが適切です。

人間は〈愛情の回路〉を持って生まれていきます。
未熟な赤ん坊は赤ん坊なりの未熟な〈回路〉。接続するのに大人の助け――身の周りの世話――が必要な〈回路〉です。

赤ん坊を世話は〈愛情の回路〉です。子どもは未熟な〈回路〉を大人の助けを借りて回しながら大きなものにしていく。すなわち成長です。

子どもの順調は〈成長〉は、子どもの〈回路〉をサポートする大人の〈回路〉に大きな影響を受けてしまいます。子どもをサポートしなければならない大人の〈回路〉がうまく回っていないと、子どもの〈回路〉もうまく回らないものになりがち。成長とともに〈回路〉は大きくなっていきますが、大きくはなっても上手く回らない〈回路〉になってしまう。自律して回すことができない〈回路〉になって、常に誰かのサポートが必要な〈回路〉になってしまうわけです。

だから、「大人になったら誰に愛情を求めればいいのか?」の問いを常に抱えてしまうことになってしまいます。

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みえさんの記事とは別に、〈愛情の回路〉が上手く回っている事例を紹介してみます。事例と言っても漫画――『釣りバカ日誌』――なのですが。

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あなたを幸せにする自信はありませんが、あなたと一緒になってボクが幸せになる自信はあります

有名な浜崎伝助氏のプロポーズです。上辺の言葉だけを捉えると、なんとも自己中のプロポーズです。にもかかわらず、みち子さんはこの愛情表現が決め手となってプロポーズを受け入れるのですね。

この、一見したところ自己中の愛情表現が正しい愛情表現になっていることは、このプロポーズが有名になっていることから推察することができます。では、何がどう正しいのか?

伝助氏の愛情表現を〈回路〉というワードを使って説明するなら

ボクの〈愛情回路〉は回っているよ!

という〈アピール〉です。みち子さんはそのアピールに接して、

だったらワタシも〈愛情回路〉を回せそう!

と感じた(≠考えた)。この〈感じ〉が二人の〈回路〉を接続し、結婚という運びになります。

恋する女性が美しく感じられるのは、自分でも知らずのうちに〈アピール〉をしているからです。その〈アピール〉を受け取った人間は、〈アピール〉している人を魅力的だと感じます。だから、白髪のおじいさんまで寄ってくることになるのです(笑) 

街の公園にでも出かけて、幸せそうな親子を観察してみてください。コロナ禍の現状で難しければ映画でもなんでもいい。こんなのは人間がいるところであればどこででも観察される現象です。

子どもの親に対するアピールはすべて

ボク/ワタシの〈愛情回路〉は回っているよ!

になっていることが観て取れるはずです。

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しかし、ギゴチナイ印象を抱く親子もいるかもしれません。そのときの子どものアピールはこのようになっているはずです。

ボク/ワタシの〈愛情回路〉を回していい?

人間ならばデフォルトで備えている〈回路〉を回す許可を庇護者に求めます。つまり、デフォルト回路の作動許可を求めることが愛情表現になっている――こんなのが愛情であるわけがありません。

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では、自身が誤った愛情表現ライフスタイルを身につけてしまっていると理解して、どうすれば正しい表現方法を身につけることができるか?

まずは〈愛情回路〉がデフォルトであることを確認することです。この確認には「憎悪」も使えます。

もし仮に幼少期に愛情を注ぐどころかDVを加えてくるような親だったとしたら、憎悪を抱いていても不思議ではありません。憎悪は常識的には良からぬ感情にカテゴライズされますが、こと〈回路〉の確認においては常識は関係ありません。憎悪は〈回路〉の誤接続ではあるけれど、回路自体が作動していることに間違いないからです。

愛情の反対は憎悪ではなく無関心。

憎悪が「誤接続」ならば、無関心は「回路の切断」です。

憎悪だけではありません。寂寥も不安も、みな〈回路〉の作動に違いありません。

〈回路〉が確認できれば、次は「模倣」です。〈回路〉はデフォルトですが、「接続方法」は技術です。

エーリヒ・フロムの名著『愛するということ』(原題:The Art of Loving)は、愛は技術であるという観点で書かれていますが、愛を〈回路〉と捉えるならば、それが「接続技術」であることがわかるでしょう。そして、技術を習得する第一歩が模倣であることは、愛以外の技術と同じです。

ただ理不尽なことなのですが、「愛の模倣」には苦痛が伴います。模倣をしようと思ってもうまくできない。模倣しようとすればするほど自分が自分でなくなっていくような感覚に襲われるかもしれません。不安は耐え難いものになるかもしれません。

「〈回路〉の確認」と「模倣の決意」は、自身で固めるしかないものです。他者に協力を仰いだところで自身が決意しなければどうにもなりません。ですが、苦痛と不安を和らげることについては、他者の存在は大きな助けになります。

ネットが力不足なのはこの点です。ネットでも助力ができないわけではありませんが、効果はあまり大きくないのが現実だと言わざるを得ません。

感じるままに。