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アナーキズムの思考

さて、小休止していた「書くこと」を再開したいと思います。

題して、アナーキストの思考。
あいかわらず堅いテーマですが、入口はとりあえず、柔らかめで。


以下のようなケースを考えるところから出発しましょう。

複数人で食事会をしたとして、支払いはどうすれば?

計算しやすいように、4人で10,000円の飲み食いをしたとしましょう。「私」のオーダーの代金は、2,000円とします。


「私」の支払いパターンはいくつか考えられます。

 a.10,000円
 b.2,500円
 c.2,000円
 d.0円

基本的にはこの4パターンでしょうか?

通常の思考は、食事会における「私」のポジションに従って、支払金額を決めるべきだという方向に進むでしょう。

aのパターンだと、「私」は支配的なポジションにある。dだと従属的なポジションでしょう。bとcでは、上下関係は存在しないか、希薄。そのなかでもcは個別的で、bだと集団的なイメージが浮かぶ。

通常の「べき思考」では、先ず要素としてカウントされるのは社会構造です。たとえ4人であっても、社会は社会です。aやdのようなパターンになるときは背景により大きな社会(会社組織とか)があるケースが多いし、bやcでは、背景は関係ないパターンが多いでしょう。合コンとか。

合コンのケースでも、「男」「女」で支払金額は違って当然もしくは平等であるべきと意見の対立はあるでしょうが、いずれにしても、背景には「男」もしくは「女」の社会的なポジショニング(収入との結び付きが強い)がある。意見の対立は、いずれの社会構造を採用すべきかという対立です。

従って「べき思考」では、「私」の行動(支払金額)と「私」以外の者は同時に決定されることになります。一時的かもしれないし継続的かもしれないけれど、そこには「ルール」が誕生することになる。

みんなルールに従うべし

これが「べき思考」です。


アナーキストは――ぼくがそうなのですが――「べき思考」では行動しません。アナーキズムの思考は、「したい思考」

「したい思考」は自己中心的な思考です。社会構造などまるでカウントに入れません。先ずカウントするのは、「自身がどうしたいか」です。

10,000円支払いたいのか?
2,500円? 2,000円?
それとも、まったく支払いたくないのか?

自身が「どれだけ支払いたいか、自身がその会合に「どれだけの価値を見いだしたか」に等しくなります。


以下はあくまで「ぼく」の場合ですが...。

一緒に食事をした人の中に社会構造を背景に「べき思考」かつ自身のポジションを誇示したい人がいるなら、基本的にdです。その人がそうしたいのであるなら、そのように「させてあげる」。その者の「したい」を尊重するという考え方ですね。

そういう人間は、しかし、得てして自身の「したい」は尊重しません。ぼくからすれ「ポジションを維持する対価」つまりその者の【アイデンティティ】の問題ですが、「べき思考」は自分と同時に他者も従うべきだと考えますから、ぼくの分の支払いを済ますことはぼくが彼の【アイデンティティ】を受け入れたことだと解釈しがちです。

その解釈は、誤解なんですけどね。ま、でも、誤解は悪いものと決まっているわけではない。誤解することで気分良くいられるなら、そう「させてあげればいい」だけのこと。

誤解で済まなくなってしまったら、ぼくは「そうしたくない」のですから関係性は維持できなくなる――至極シンプルです。


逆にaになるケースもあります。(あくまで想像のなかの話でしかないのですが)他の三人が機嫌のいい女性で(年齢は関係ありません、ここ重要!)、和やかな時間を共有できたようなケース。そのようなレアケースを遭遇した対価として10,000円支払うのことは、まったくもってやぶさかではない。

もちろん「したい」だけです。「したい」を押し通すということではない。あくまでぼく自身の「したい」を尊重していただけたら嬉しい、という話。


「したい思考」のベースは、自身の価値発見(創造)能力です。自身が得た体験は、自分自身で価値(=価格)を見い出す。ここが第一。

第二は、自身の「したい」と同等の価値能力を相手にも認めること。

ぼくが10,000円支払いたい。他の3人も10,000円支払いたい。4人ともが共有した体験に最高の価値づけをするというのなら、支払いは平等に2,500円にする。

この〈平等〉には「べき思考」が導きだす【平等】以上の価値(あくまで自己中心的)があることは言うまでもありません。また、他の3人がぼくの「したい」を尊重してくれるのであるなら、尊重の対価としての10,000円は充分に釣り合いが取れるでしょう――


では、4人の「したい」の合計が支払わなければならない金額に届かなければ? 

この場合には【平等】でいい。残念なことですが。

それでも、「残念」を共有できるなら、場の対価(10,000円)の均等割(2,500円)とすることができるでしょうが、「残念の共有」もできない残念であるのなら、自己責任理論(「私」は2,000円)を採用することになるでしょう――




アナーキズムの思考の軸は第一が〈自己中心〉。自身の価値発見(創造)能力です。

第一だけだと俗に言うジコチューなので、第二がある。すなわち、他者の価値能力を同等に認める。

第二は第一から派生しています。他者の価値能力を認めるのも、あくまで自身がそう「したい」から。そして、互いに「したい」を尊重することができるなら、合意を見ることができないはずがない――というのは、確信というか、もしかしたら信仰と言ってもいうべきかもしれません。健全なヒト(≒人間)にはそのような能力がある。すなわち「社会的である」、と。



以上のようなアナーキズムの思考および行動は、察しがつくでしょうけれど、実際に実行するとなるとなかなかに困難です。阻害要因が多いから。

この阻害要因に着目する。
健全なヒトの社会性を信仰するなら、歴史とは阻害要因の生成過程に他なりません。

「歴史を再編集」するということは、必然的に阻害要因がない(少ない)〈システム〉をデザインすることにつながっていきます。


アナーキズムはニヒリズムではありません。


〈自己中心〉の思考。
ヒトに生得的に備わっている社会生成能力に「信を置く」思考

(――をアナーキズムと呼びたいというぼくの願望なんですが)

感じるままに。