”信頼なき信頼”という言葉

今日はテキストを書かないでおこうと思ってたんですけど、そういう時に限って、なぜか機縁に出逢うんですね。

Kさん経由で読んだテキストを見て、書かずにはいられなくなりました。

ご紹介の『美術手帳』と、

Gohさんが寄稿したという『現代思想』もポチってしまいました ^^;

ぼく的にもっとも興味があるのは、『現代思想』掲載の論考です。『「信頼なき信頼」の試論』というタイトルなんだそうで、本テキストのタイトルもここからいただきました。

”信頼なき信頼”に感じるものがある。


この言葉、ぼくなら

  【信頼】なき〈信頼〉

というふうに書きたい。視覚的に煩わしくなるのが大きな欠点で、文学的でなりにくいのだけれど、哲学的(?)には大きな効用があるとぼく自身は考えています。

だいたい、前者の「信頼」と後者の「信頼」は、意味は似通っているけれど、明確に違うじゃないですか。

”【信頼】なき〈信頼〉”と書き表すと、その違いが視覚的に直感できる。


【信頼】と〈信頼〉の間にある違いは、”信頼”という言葉だけにあるわけではなくて、さまざまな言葉にあります。

たとえば”正常”や”健康”という言葉。先に引用した『自由からの逃走』をもう一度。

正常あるいは健康という言葉は二様に定義することができる。第一には、活動しつつある社会の立場からである。すなわち、ある社会のなかで、かれが果さなければならない役割を果すことができれば、かれは正常あるいは健康ということができる。もっと具体的には、それは、その特定の杜会のなかで要求されている流儀にしたがって働くことができるということ、さらには社会の再生産に参加することができるということ、すなわち家族をつくっていくことができるということである。第二には、個人の立場からである。このばあいには、われわれは個入の成長と幸福のための最上の条件を、健康あるいは正常と考える。

社会的な意味と、個人的な意味。

ぼくの流儀では、社会的な意味の時には【正常】【健康】と表記し、個人的な意味の時には〈正常〉〈健康〉と表記する。


”社会”という言葉も【社会】と〈社会〉に書き分けられます。

〈社会〉とは個人が直接体験することができる個人の周囲の環境といったような意味です。対して【社会】は、個人が直接体験することは原理的に不可能だけれど、そうした実体があると(頭脳的に)理解できる対象を指す。すなわち間接体験です。

個人は【社会】のなかに埋めこまることで〈社会〉を体験します。


”信頼”も同じことです。

”信頼”なき信頼”と書くとき、前者は社会的な間接体験としての【信頼】のことでしょう。だとすれば、後者は個人の直接体験としての〈信頼〉でしかあり得ない。

逆の可能性もあるし、ありえると想像することは可能です。

〈信頼〉なき【信頼】。個人的な〈信頼〉が喪失してすべて社会的な【信頼】へと置き換わってしまう。


そういった様は芸術において描写されます。最近のもっとも端的な例は、ぼくが知る範囲では『コンビニ人間』でしょうか。

(『コンビニ人間』については『【社会】に適応する』というタイトルのテキストを書いています。)


Gohさんの”信頼なき信頼”という言葉の意は、『コンビニ人間』の方ではなくて、”【信頼】なき〈信頼〉”の方だと推測します。まだ試論を読んでいないから確定的なことは言えないけれど、上掲の『雑談』を見る限りはそのように推測できる。

もっとも、ぼくの予想の範囲に収まっていない可能性が一番高いのでしょうけれど。



ブロックチェーンといった技術によって可能になると期待されるものは何か。ブロックチェーンはどのような社会を実現すると期待できるのか。

ブロックチェーンが実現しうるのは、社会的な【信頼】が社会の中で技術的に完結させること。人間の手を煩わせずに【信頼】が構築することが可能になって、人間は〈信頼〉を獲得し、与え、醸すことに持てるリソースの大半を傾けることができるようになる社会でしょう。

そういったところが、Gohさんには見えているような気がします。

『雑感』に書き記されているのは、「ブロックチェーンは【信頼】を解体していってまうよ~♬」ということだというのが、ぼくの読解。この場合の【信頼】とは「所有」と言い換えていいでしょう。従来の人はブロックチェーンでアートの所有を確定させようとしているけど、うまくいかない。いくわけがない。ブロックチェーンは根本的にそういった技術ではない。


現状、人間は【信頼】を獲得することに持てるリソースの多くを費やさなければなりませんし、そのように子どもの頃から【教育】されています。そうした【教育】のおかげで、社会はますます人間に多くの【信頼】を要求するようになっている。

そういった状況を、よく「社会が複雑化する」なんて言われますけれど、まったくもって不正確な物言いだと思います。言いたいことに察しはつくけれど、漠然とした印象にしかならない。漠然とした印象を明確化するには多くの言葉が必要になって、理解することができる(能力と時間がある)人間が限られ、ますます格差が広がっていく。


〈信頼〉や【信頼】などと書き表し、こうした表記から感得される言語感覚が発達していけば、不明瞭な言葉を明確化するために多くの言葉を書き連ねるという煩わしい作業は必要なくなるでしょう――というのは、ぼくの希望的観察ですが。


芸術家と言われるような人たちは、この煩わしい作業を直観的な形にしようと多大なリソースを費やしています。直観的な形で提供して、〈信頼〉の方面へ人間が多くのリソースを割くようにできるように促そうとする。その成果には素晴らしいものが数多くあって人類の宝というべきものだけれど、やっぱり、理解できる者はどうしても限られていってしまう。直観的な理解に至るには、これまた多くのリソースが必要ですから。

限られているところへ至ろうとする成長の悦びは何ものにも変えがたいものだけれど、その悦びは個人的なもので、人間が社会といったものを形成していく【アルゴリズム】とは根っこのところで噛み合わないと思います。


(この【アルゴリズム】のありようを描写したのが『ホモ・デウス』です)


そのことを聖書の言葉を借りて表せば

カエサルのものはカエサルに 神のものは神に 

【信頼】はカエサルのもの。
〈信頼〉は神のもの。

ブロックチェーンは「カエサルもの」をカエサルが自己完結するようにしてくれると期待できる。そうなれば、人間は「神のもの」に専心できるし、そうなれば、神も必要がなくなる。

言語的に直接体験しか感覚できないピダハンが神を識らないように。


本の到着が楽しみです。

感じるままに。