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Benatar型の反出生主義者は自殺すべきか?

はじめに

このnoteの目的と概要
 この記事は、Benatar型の反出生主義者に対して「なぜ自殺しないの?」と問う人々に対して浴びせられる罵声(Benatarを理解してない!反出生主義を誤解している!BNHBを読まずにそんなことを言うな!etc...)を減らす事を第一の目的としている。反出生主義を厭世主義そのものとする短絡的な理解で「自殺しないの?」と問いかける人間も多いが、十把一絡げに全ての人間がそうであるとは限らない。Benatar型反出生主義が死亡促進主義(pro-mortalism) を含意するかは、それ自体が重要なテーマとして認知されるべきである。
 具体的には、Benatar型の反出生主義の論理的支柱である基本的非対称性が、生まれてくることが常に害であるだけでは無く、生まれてきてしまった人物に対しても、生き続けることが常に害悪であるという理解へと我々を導くことに関わる論証を述べる。
 また、付録として、昨今の反出生主義の受け入れられ方と自殺との関わりを記しておく。
事前知識
 Better Never to Have Been(Benatar 2006)の二章で考察された、基本的非対称性について理解していればよい。Every Conceivable Harm:A Further Defence of Anti-natalism(Benatar 2012)のAsymmetriesの項に書かれていることで十分である。(前者はすずさわ書店から日本語訳が出版され、後者は現代思想2019年11月号に和訳が掲載されている。)

注意
 私はBenetar型の反出生主義者ではなく(それどころか、個人の権利として生殖は保証されるべきと考えている!)、従って死亡促進主義にも共感を抱いてはいない。また、誤植や反論についてはtwitterにて@MQsGuNy4kまで遠慮なく連絡して欲しい。

死亡促進主義を導く一応(prima facie)の議論と、その議論への考えうる反論

Benatarの基本的非対称性
 今後の議論の為にBenatarの基本的非対称性(basic asymmetry)を構成する4つの命題を以下に例示し、解説を加える。十分な理解がある者は読み飛ばしても構わない。
(B1)苦の存在は悪い(The presence of pain is bad)
(B2)快の存在は良い(The presence of pleasure is good)
(B3)苦の不在は良い、たとえその良さを享受している人が居なくても(The absence of pains is good, even if that good is not enjoyed by anyone)
(B4)快の不在は悪くない、ただしその不在が剥奪となるような誰かが存在しない場合に限る(The absence of pleasure is not bad unless there is somebody for whom this absence is a deprivation)
 ここで基本的非対称性に関する、重要な事実をいくつか列挙する。
①基本的非対称性における良さと悪さは、福利としての良さや悪さを指しており、道徳的な善さや悪さとは異なっている。
②(B1)(B2)における悪さと良さは、快苦を受容している人物の福利にとっての悪さや良さである。
③(B3)は、実在する人物と、そもそも存在しない人物の両方に対してあてはまる主張である。また、それぞれ相対的な良さ(better)に関する主張であるのでこれを以下に整理する。
(B3a)実在する人物の苦の不在は、実在する人物の苦の存在よりも良い(better)。ここで、良いとは実在する人物の福利にとって良い。
(B3n)そもそも存在しない人物は、従って苦も不在となるが、これはもし仮に存在していた人物(以下では可能的存在者)の受けていたであろう苦の存在よりも良い(better)。ここで、良いとは可能的存在者の福利にとって良い。
④(B4)についても、③と同様にして、実在する人物と、そもそも存在しない人物に対してあてはまる主張であり、また相対的に悪くない(not worse)とする主張である。これを以下に整理する。
(B4a)実在する人物の快の不在は、実在する人物の快の存在よりも悪い(worse)。ここで、悪いとは実在する人物の福利にとって悪い。
(B4n)そもそも存在しない人物は、従って快も不在となるが、これは可能的存在者の受けていただろう快の存在よりも悪くない(not worse)。ここで、悪くないとは、可能的存在者の福利として悪くない。
⑤このように、基本的非対称性は一見、シンプルかつ分かりやすい表現であるが、その意味内容は複雑である。誰にとっての良さ悪さなのか?内在的なのか相対的な良さ悪さなのかが、揺れていて正確な理解はとても難しいのだが、以下の議論では上記の通り解釈する。
 なお、③についてはEvery Conceivable Harm:A Further Defence of Anti-natalism(Benatar 2012)でのMetzに対する再反論

The claim that absent pain in Scenario B is “good” means, I said, that it is better than the presence of pain in Scenario A. Similarly, the claim that absent pleasure in Scenario B is “not bad” means that it is not worse than the presence of pleasure in Scenario A.

Every Conceivable Harm:A Further Defence of Anti-natalism
(Benatar 2012)
S. Afr. J. Philos. 2012, 31(1) p.135より引用

④についてはBNHB(Benatar 2006 p.41)においての言及を参照せよ

There I said that the absence of pleasure is not bad unless there is somebody for whom this absence is a deprivation. The implication here is that where an absent pleasure is a deprivation it is bad.
(一部省略)
In other words, it is worse than the presence of pleasure. But that is because X exists in Scenario A. It would have been better had X had the pleasure of which he is deprived.

BNHB(Benatar 2006 p.41)より引用(原文での斜体を本稿では太字にした)

一応(prima facie)、反出生主義者が自殺したほうが望ましい理由
 
人物Mが自殺した結果、もうこの世に存在しなくなった場面を考える。この時、可能的存在者として、自殺を実行せずに生存していたMを考える事ができる。
(R1)自殺したMはこの世に存在せず、従って苦痛は存在しない。これは、自殺しなかった場合に存在していただろう苦の存在よりも(可能的存在者の利益として)良い。(基本的非対称性(B3n)の状況である)
(R2)自殺したMはこの世に存在せず、従って快は存在しない。これは、自殺しなかった場合に存在していただろう快の存在よりも(可能的存在者の利益として)悪くない。(基本的非対称性(B4n)の状況である)
(R3)故に、自殺せず生き続ける事は常に害であり(Continuing Existence Is Always a Harm.)M君の利益にとって自殺した方が常に望ましい。たとえMが自殺しなければ送ったであろう人生に針の一刺し程度の苦痛以外に何の苦痛もなく、幸せで満ちていたとしても。

考えうるBenatar型反出生主義者の反論
(C1)自殺したMの快の不在は、そもそも存在しない人物の快の不在とは区別すべきで、これは悪くないのではなく、悪い。従って(R2)が誤りである。
(C2)始めるに値する命と、続けるに値する命では異なる価値基準が必要となる。そして前者の方が、後者よりも厳しい基準が要求されるので、出生を許されずとも、人生の継続は許されうる。
(C3)まだ存在していない人は存在するようになることに何も関心を持たないのに対して、既に存在してしまっている人は存在し続けることに関心を持っている。自殺は、後者の関心を侵害するのに対して、反出生はこのような侵害する関心が存在しない点で異なり、故に前者は否定されるべきである。

死亡促進主義を支持する再反論

(C1)の検討①
 
自殺による不在と、そもそも生まれないことによる不在を区別する理由が不明である。Every Conceivable Harm:A Further Defence of Anti-natalism(Benatar 2012)でのAnti-Natalism and Pro-Mortalismの項では、「自殺しなければ得られた快が、自殺によって剥奪されて快の不在となった生前のその人が存在するという考え」と、「(B4)では剥奪を意味する誰かが居れば悪い」という事から、自殺による苦の不在は悪いという主張がなされている。
 まず、その人が存在するという事は、自殺後の世界に実在するという意味では当然ない。自殺前の過去の時点に存在していたという意味での存在である。(B4n)では可能的存在者の福利として快の不在が悪くないという評価を下していたのだが、過去においてその人が存在したという事実が、可能的存在者の福利の評価になぜ影響を及ぼすことが出来るのかが理解しがたい。我々は回顧的に、「あの時点で死んでいればこの苦を味わわずに済んだ」や、「あの時点で死ななかったのでこの快を味わえる」と考えることが出来るが、死後において「あの時点で死ななければ、(想定される)快を受け入れられたのになぁ......」と考えることは出来ない(少なくとも、死後を生前と同様に無と想定する形而上学的コストの少ない考えにおいては)のである。であるならば、逸失利益を惜しむような価値判断としての剥奪の悪さは、可能的存在者の福利には反映され得ないように思える。
 さらに、(B4)における剥奪という概念の曖昧さと無根拠さについても指摘しておきたい。Benatarは「剥奪を意味するその人が存在すれば、快の不在は快の存在より悪い」ことを主張するが、これは恐らく(B4a)を言う為の項目であろう。BNHB(Benatar 2006 p.41)では、実在する人物の快の不在が、実在する人物の快の存在よりも悪いという事を主張する場面で「実在する人物にとって快の剥奪を意味しており悪い」と述べている。しかしながら、実在する人物の福利にとっての快の不在が、快の存在より悪いのは明らかではないだろうか?剥奪という概念を介在させる意義があるのかは疑わしい。また、Benatarが基本的非対称性で説明したとする「広く受け入れられている4つの非対称性」についても、(B4)における「剥奪となる誰かが存在しない限り」という条件節が無くとも、全く同等に説明することが可能なのである。
 BNHB(Benatar 2006 p.41)でのScenarioAとScenarioBでの対比を、自殺についても当てはめよう。自殺しない場合の快の存在は、人物Mの快い状態(pleasurable state)だが、自殺した場合の快の不在は、誰かの普通の状態(neutral state)ではない。そもそも誰の状態でもない(no state of a person at all)のである。そして人物Mが存在する場合において、快の存在が、快の不在よりも良かろうと、人物Mの快の存在は、人物Mが既に死んでいる場合の快の不在よりも良くはない(not better)と言うべきであろう。(以下に、BNHB(Benatar 2006 p.41)から該当する箇所を引用しておく。)

In other words, it is worse than the presence of pleasure. But that is because X exists in Scenario A. It would have been better had X had the pleasure of which he is deprived. Instead of a pleasurable mental state, X has a neutral state. Absent pleasures in Scenario B, by contrast, are not neutral states of some person. They are no states of a person at all. Although the pleasures in A are better than the absent pleasures in A, the pleasures in A are not better than the absent pleasures in B.

BNHB(Benatar 2006 p.41)より引用

(C1)の検討②
 誕生以前と誕生以降で、人生の評価が逆転する現象を指摘し、その不整合は死亡促進主義を含意する理論の修正によって解決されるべきと主張するJiwoon HwangのWhy it is Always Better to Cease to Exist(2018)の議論を紹介する。
 まず、基本的非対称性から、生まれてくることよりも、生まれてこない方がより良い事を示すBenatarの議論を振り返ろう。

図1 ベネターの基本的非対称性
(BNHB (Benatar 2006 p.38 Figure2.1.)から引用)

 人物Xが生まれてきた場合が図1のScenarioA、生まれてこなかった場合がScenarioBにあたる。(B3n)より、図1での(1)よりも(3)の方が良い。また、(B4n)より、図1での(2)に対して(4)の方が悪くない。重要なことは、(2)と(4)ではどちらが良いということはないが、(1)と(3)では(3)の方が良いという事実である。すると、もし人物Xが生まれたが故にほんの少しでも苦が存在すれば、それ以外が幸福に満ちていた人生であってもScenarioA(Xが生まれる)よりもScenarioB(Xが生まれてこない)が良いという事実が導かれる。(以下にBNHB(Benatar 2006 p.48)から該当する部分を引用しておく)

This recognition is important for warding off another potential objection to my argument. One of the implications of my argument is that a life filled with good and containing only the most minute quantity of bad—a life of utter bliss adulterated only by the pain of a single pin-prick—is worse than no life at all.

BNHB(Benatar 2006 p.48)より引用

 さて、上での記述からも見て取れるように、Benatarは何の苦もない幸せに満ちた人生(そのような物は存在しない)であれば、図1での(2)と(4)の優劣が存在しない以上、生まれてくることがその人物にとって悪いとは言えないと考えている。それでは、以下に想定する人物P1と人物P2では、どちらの方が「生まれないよりも、生まれてきた方が悪い」のかを考えよう。

人物P1は、数値化して苦30と快60を人生で経験する。
人物P2は、数値化して苦31と快65を人生で経験する。

 我々は、人生を生きる上で、より大きい快を得るために苦を引き受けることがありうる。例えば、大学生は往々にしてやりたくもないアルバイトを行う事で、友人たちとのかけがえのない青春の思い出となる旅行代を稼ぐだろう。あるいは、Benatarも賛同していることだが(BNHB(Benatar 2006 p.57))、愛を知らずに一生を生きるよりは、例え愛する人を失うとしても誰かを愛する人生の方がより良いだろうということは広く認められている。ここで、何もしなかった人物をP1、苦を受け入れることで、より多くの快を得た人物をP2として、議論の為に数値化したものが上の例である。
 さて、通常はP1よりもP2の人生の方が、より望ましいものであるとされている。ところが、生まれてくるにあたって受ける害は、P2の方がP1よりも大きいという結論を基本的非対称性は導く。何故なら、まず、P1が生まれてこなかった場合、快60が不在となるが、これは快60の存在より悪くない((B4n))。また、P1が生まれてこなかった場合、苦30が不在となるが、これは苦30の存在より良い((B3n))。これより、P1の場合は、苦30(の存在と不在の福利としての良さの差)だけ、生まれてくるにあたって害を受けていることになる。ところが、P2が生まれてこなかった場合は、同様にして快65の不在が悪くない一方、苦31の不在がより良い事になって、P2は苦31(の存在と不在の福利としての良さの差)だけ、生まれてくるにあたって害を受けていることになる。従って、P2の人生と、P1の人生では、P1の人生の方が、生まれてくる害が少ないという結論を導ける。
 まとめると、生まれてくる以前では、P1の人生の方が望ましいが、生まれてきた後の判断ではP2の人生の方がより望ましいことになり、この現象は不自然である。ここで、(B4a)での悪いを、悪くないに変更すれば、生まれた後の判断においてもP2の人生はP1の人生よりも悪いことが言えて(これは典型的なネガティブ功利主義的な価値判断である。)従って、不整合性を解消できる。ここで、(B4a)を以上のように修正したならば、(C1)の反論は極めて説得力を失うだろう((B4a)(B4n)のいずれでも悪くないが、自殺の場合に限ってとするには、特別な理由が要求される)。

(C1)の検討②での注意
 「愛を知らずに一生を生きるよりは、例え愛する人を失うとしても誰かを愛する人生の方がより良いだろう」という事例では、愛を知らない一生そのものが剥奪であって、従って悪いという評価をBenatarはしている。これに関しては、愛を知らない状態の悪さが十分に説得的ではあるのだが、「アルバイトをして旅行に行く大学生」の事例においては、旅行をしない事の悪さを主張することは難しくなり、例えば「針で一刺しされたことの代償に100万円をもらう」などの例を考えれば、100万円をもらえないことの悪さを主張することは大変難しいだろう。我々は通常、100万円をもらえてないが、これは剥奪であって悪いというよりは、普通の状態(neutral state)と言うべきである。

(C2)の検討
 まず、(R3)が正しいならば、本人が自身の福利を最大化するためには直ちに自殺した方が望ましいことになる。(C2)は生まれる事に許容される害悪と、人生の継続にあたって許容される害悪の差を主張しているが、(R3)を認めた上で本人の福利の最大化の為に自殺することを防ぐ理由にはならない。
 ただし、Benatar型の反出生主義者は、生まれてくることが常に害である事(誕生否定)から直ちに出生が道徳的に許されない(反出生主義)を導いてる訳ではなく、生まれてくることが深刻な害であることから反出生主義を主張している。従って、人生の継続によって被る害が、生まれてくることの害よりも軽いことをBenatar型の反出生主義者が主張できれば、(C2)による反論が成立しうる。以下に、この論点でありうる2つの主張を検討していく。

(D1)生まれてこない場合には、当然、死が存在することは無いが、既に生まれてきた者には不可避に死が存在する。ここで、死は深刻な害であって、生まれてこない場合には回避できるが、自殺によっては回避できないが為に、生まれてくることの害は、人生の継続によって被る害よりも大きい。
(D2)我々の人生で受ける害の多くは、人生の終盤に存在する事が多く、あるいはそうでなくとも偏在している。人生における良い部分を送っている人間が、直ちに自殺をする必要はない。

 (D1)についてだが、我々が(R3)を認めるならば、死の道具的な悪さは全くない事になり、死そのもの(Death per se)の悪さを主張する必要がある。我々は人生が、存在しないよりも福利として良いと感じるからこそ、死を悪いと考えるのではないだろうか?実際に、人生の継続が存在しないことよりも悪いと考える末期患者や、重度の精神病を持つ人間は死にたいという願望(希死念慮)を持つ。(R3)は人生の継続よりも、死んで存在しないことの方が福利として良いという主張であるので、これを認めれば、むしろ死は道具的な価値を持つとすら言える。以下に、この点でのBenatar型反出生主義の反論に否定的である論文(中川優一(2020))のリンクを掲載しておく。

 (D2)について、まず、たとえ人生における良い部分を送っていたとしても、(R2)により、それが自殺によって存在しないことに対して優れている事にはならない。(R2)を認めるならば、どれほど快に満たされた人生の部分を自殺によって失うことになろうが、存在しないことは悪くないのであって、自殺を止める理由にはならない。また、人生のどんな部分にだって針の一刺し以上の苦は常に伴うであろう。Benatarがどのレベルを苦と認めるか(例えば、寝不足だが用事の為に起きる事は苦に含まれるのか?)は定かではないが、我々の人生において、「良い部分」というものが、(R2)の下で存在するかは疑わしい。加えて、Benatar自身が生まれてくることの深刻な害を示すために用いたポリアンナ効果は、我々が人生のQOLを過大評価する傾向にある事を示しており、「人生の良い部分」と我々が考える場面においても、それが過大評価である可能性が高いと言えるだろう。尚、Every Conceivable Harm:A Further Defence of Anti-natalism(Benatar 2012)におけるAnti-Natalism and Pro-Mortalismの項目で、ポリアンナ効果によって「継続に値する人生のQOLを過大評価している可能性」をBenatarは指摘するが、自分の人生を過大評価している事と、「人生が継続に値するか否かの基準」がそもそも過大である事は区別すべきである。ポリアンナ効果を説明する心理現象の一つである適応(adaptation)は、いざ継続に値するか悩ましいQOLに至った際には、むしろ継続に値するQOLをより過小評価して、自身のQOLに肯定的な判断を下すことが予想できる。

(C3)の検討
 存在し続ける事への関心は、既に存在する者にしか持ちえないが、存在する我々は自身の福利を最大化するという関心も持つ。そうして、(R3)を認めるならば、自身の福利の最大化のために、前者の関心を捨てる事が合理的な判断である。あるいはそもそも、存在し続ける事への関心の侵害としての死が、深刻な害であるために、これを回避すべきという主張もありうるが、これは(D1)と同様の問題がある。つまり、存在し続ける事そのもの(Continuing existence per se)の(つまり道具的でない)良さがいかなるものかの論証が要求されるのだ。さらに、我々の関心の結果として、存在し続けることの良さが存在しようと、(R2)によって存在しない事に対する優位にはなりえない事、あるいは、いずれは我々は死すべき存在である以上、自殺は存在する時間を短縮するだけであって、人生を継続しようと自殺しようと最終的にはこの関心は満たされない事から、(C3)は死亡促進主義をあえて否定する根拠としては不十分であろう。

まとめ
 (C2)、(C3)の検討においてもよくわかるように、(R3)を受容したうえで、死亡促進主義を否定することはかなり難しい。これは、基本的非対称性を受け入れた上でなお、反出生主義を否定することが困難である事と似ている。いかなる人生であっても存在するよりは、存在しない方がより良いという主張はそれほど強力なものであり、基本的非対称性の否定の為に多くの論者が努力するのも、まさにこのためである。

付録1 反出生主義の受容のされかた

苦しみの吐露の一形態としての反出生主義
 
twitterで反出生主義と検索すれば、所謂「メンヘラ」的なアカウントによる素朴な反出生的な意見を見る事ができる。つまり、自らの人生の耐えがたい苦しみから、その人生を誕生させた出生への肯定的価値観を非難しているだろうと推測される意見である。ところが同時に、反出生主義を自称する方々は「反出生主義者に自殺を促す」意見に対する反発をしていることが多い。反出生主義と言う思想は、人生における苦しさを、その出生に根拠を求めて非難することによって、その継続に関してはむしろ肯定的であろうとさせる力が有るように思える。
 苦難に直面した人間は、その苦しみの原因を何かに求めようとする。その対象は、隣国で有ったり、権力者であったり、特定の人種であったりするかもしれない。そうした仮想敵の役割を出生(主義)が果たしている事は、反出生主義という思想が再び注目されるようになったことの大きな理由であろう。
 さて、このような自己利益の手段として反出生主義が利用されているならば、なおさら死亡促進主義の検討が必要になる。人生の苦しみこそが最も根源的な問題であるのだから、その継続が本当に利益となるかも当然、問題となりえるからである。反出生主義を自称する者の多くは、現実的には出生を禁ずる事は人間の生殖欲求や、そもそもの理性の欠如から難しいと考えているが、それでも理論的には出生を反省している。それならば同様に、現実に自殺を想う事自体が大いなる苦痛を伴おうとも、理論的に人生の継続を反省する事も出来るであろうし、それこそが現にある苦しみへの対処になるだろう。

注意
 繰り返しになるが、私は死亡促進主義者ではない。また、まさに希死念慮に苦しんでいる方に必要なのは福祉である。病的な状態で哲学的な事を考えても、気が滅入るだけであって、そうした方々は、まずは各種相談窓口や医療機関を頼ることを強く勧める。

http://www.city.sendai.jp/seshin-kanri/kurashi/kenkotofukushi/kenkoiryo/sodan/seshinhoken/heartport/mental/ichiran.html 
(仙台市相談窓口一覧)

付録2 素朴な、反出生主義への対抗意見

市民道徳との対立
 反出生主義に対する素朴な反対をいくつか紹介しよう。
①倫理の目的を共同体の存続に訴える議論
 そもそも、我々の倫理とは、共同体の存続と繁栄を目的としているので、反出生主義のような明らかに共同体の存続にとって有害となる思想が倫理的に正しいとは思えないという意見である。
 同胞のための自己犠牲はたびたび美談となるが、これは功利主義の精神にかなう(最大多数の最大幸福)から賞賛されるというよりは、共同体の利益に尊さを感じるからこその称揚であるのだろう。こうした道徳観念を持つ人々には反出生主義は受け入れられないし、また互いに建設的な議論を行うことも難しいと考えられる。より基本的な部分で善に関する認識の相違があるからである。
 より倫理的に洗練された例としては、進化論的論証によって、道徳を進化論的な適応度の上昇のための手段であるというような還元をしたうえで、だからこそ本来の目的である適応度の上昇こそが我々のなすべき事であるという立場がありえる。このようなメタ倫理的立場がそれなりに受容されうるのは、もともと我々自身に共同体の存続を善とする道徳観念が備わっているからであると考えられる。いずれにせよ、このような立場においても同様に反出生主義は受け入れられない。
 ただし、上のような進化論的論証を頼った議論をしても、だからと言って「適応度の上昇こそが我々のなすべき事」が必ずしも導ける訳でないことには注意したい。むしろ、道徳を進化論的に還元できるならば、道徳的懐疑論の立場を導く事も少なくとも同程度には自然である。しかしこの場合においても、反出生主義を否定しうる(反出生主義も道徳的主張であるので)のはとても面白い。

注意
 ①の立場に類似して、「生物としてあるべき生き方が望ましい」という立場がある。LGBTへの差別的言明として、「生物として間違っている」というような主張がなされる時は、上のような立場からの発言であると解釈できるだろう。古くにはソクラテスの時代から、人間の本性に訴える論証としてこのような意見は存在するが、具体的な議論をするにあたっては、あまりにも主観的であって説得力に欠けるだろう。

②生殖の自由や特に障害者差別への懸念からの反対
 優生保護法によって、低いQOLの出生の予防を目的とする、ある種の反出生的政策を行ってきた負の歴史がある。この反省から、反出生主義を問題として、また生殖の自由を保護すべきであるという意見がある。
 こうした立場は、「ではなぜ生殖の自由が重要であるか?」に関する回答へ直接にはなっていない事が問題であるのだが、同時にこれは重要な問題を指摘している。すなわち、我々の多くが人格の尊重を自明視しているように、生殖の自由に関しても同程度には基礎的な価値とされているかもしれないという事である。仮にそうであるならば、反出生主義との間に対話が成立する可能性は低いだろう。やはり、基本的な善に関する認識が異なっているからである。
 このように、反出生主義はその徹底を現実に行おうとすると、かなり多くの基本的な価値を共有できない人間を敵に回さねばならないという課題があるので、「反出生主義者ではあるが他人に強制はしない」というような、ある意味煮え切らない態度になってしまうのであろう。
 なお、反出生主義者の立場から「これは全人類が生まれてこない方がよかった」や「これは全人類が生殖してはならない」という思想であるので、障害者差別を招くことは無いという反論がある。しかし、この反論はあまり的確ではない。人生のQOLを反出生主義の根拠にする以上は、QOLが低いだろう障害者の方がますます「生まれてこない方が良かった」や「障害者を生殖してはならない」とされる方が自然であるからである。

参考文献(と、いくらかのコメント)

Better Never to Have Been(Benatar 2006)
 
Benatarの簡潔で明快な記述によって、反出生主義の概要を明確に把握することができる名著である。2章が基本的非対称性の理解のために必要になるが、続く章で反出生や絶滅に関わる(比較的)現実的な問題についても考察されていて面白い。
Every Conceivable Harm:A Further Defence of Anti-natalism(Benatar 2012) (この和訳が右である)考えうるすべての害悪(デイヴィッド・ベネター 小島和男による略 2019)
 この和訳記事の冒頭にあげられている基本的非対称性の解説が、最も簡潔に書かれている非対称性論法の解説である。種々のBenatarへの批判への応答がなされており、Benatarの知性が感じられる記事である。なお、Booninへの応答においては不十分であると筆者には感じられた。死亡促進主義に対する応答もより多くなされている。
Still Better Never to Have Been: A Reply to (More of) My Critics(Benatar 2013)
 注釈48が面白いので、ぜひ見てほしい。また4.1でのHarmanへの応答や、注釈11で言及される「negative dutyのpositive dutyに対する優越」の問題は、BenataはBNHB(Benatar 2006 p.32)での応答で十分であると考えているようだが、筆者には不十分に感じられた。同様の問題を、デイヴィッド・ベネターの誕生害悪論はどこで間違えたか(森岡正博 2021 3節BNHB2章パート2の構造) で議論されているので、ぜひ確かめてみてほしい。
Better No Longer to Be: The Harm of Continued Existence(McGregor Sullivan-Bissett 2012)
 この議論のおかげで、Benatarから死亡促進主義に関するさらなるコメントを引き出すことが出来たので、筆者としてはとても感謝してる。ただし、タバコのメタファーは、出生においては余りにも文脈が異なっているのであまり上手くないように思える。
Why it is Always Better to Cease to Exist(Jiwoon Hwang 2018)
 この方はもともと反出生主義者として活躍しており、自身で反出生主義マガジンを出版していたようであるが、Benatarの議論が死亡促進主義を含意するという考えに至り、実際に自殺を遂げているようである。その知性と行動力には深い尊敬を感じざるをえない。ご冥福をお祈りする。
How to Reject Benatar's Asymmetry Argument(Magnusson 2019)
 Rejecting P1において、基本的非対称性(B4n)の立場の不自然さを主張している。この説得力は極めて高いように思える。
ベネターの反出生主義をどう受け止めるか(吉沢文武 2019)
 Benatarが人生の一部の比較と、全部の比較を区別なく扱っている点を指摘している。ほかにもBenatarに否定的な議論が多くなされており、特にBenatarの反出生主義への論駁を試みたい方には強くおすすめしたい。
非対称性をめぐる攻防(鈴木生朗 2019)
 BooninとMagnussonの応答のエッセンスを分かりやすく伝えており、また筆者にもこれらの応答はなかなか説得力があると感じられる。
べネターの反出生主義における「良さ」と「悪さ」について(佐藤岳詩 2019)
 同一人物でも、時点ごとに他人として扱うなど、やや形而上学的なコストが高い議論もあるが、Benatarへの反論を試みている。Benatar自身、基本的非対称性がParfitの非同一性問題を解決すると主張している(筆者も正しいと考えている)ので、ParfitのReasons and Personsで主題的である時点間の非同一性に関する論証から、Benatarの基本的非対称性を論駁するのも自然である。
「非同一性問題」再考(加藤秀一 2019)
 時間の哲学と、反出生主義の橋渡しとなる記事。BNHB(Benatar 2006)でどのようにParfitの非同一性問題を解決したかを理解する助けになった。
反出生主義における現実の難しさからの逸れ(小手川正二郎 2019)
 「現実的」な観点から反出生主義を考察している。典型的な反出生主義者は、嫌がるような議論であると思える。尚、この記事の依頼を受けた数日後に彼の子どもが生まれたらしいことも、ますます反出生主義者の顰蹙を買いそうで、面白い。
ベネター反出生主義は決定的な害を示すことができるか(中川優一 2020)
 
この記事だけでなく、中川優一は反出生主義に関連する論文を多く執筆している。興味のある方は、まずはこの方の論文を読むといいのではないだろうか。
デイヴィッド・ベネターの誕生害悪論はどこで間違えたか(森岡正博 2021)
 BNHB(Benatar 2006)の2章の詳細な検討がなされている。森岡正博は種々の反出生主義に関する研究を行っているが、ここではあくまでBenatar型の議論に終始している。また、BooninやMagnussonの議論の影響を強く感じられた。

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