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『我が友、スミス』

2022/12/9
石田夏穂,2021,集英社.

適切なサムネなさすぎた!( ;  ; )

初読はちょうど1年前で、今回ちゃんと読み返してないけど、意外とちゃんと考えた。授業ではユーモラスだが深みに欠けるという意見が目立ったけれど、読みどころ(それは改善の余地であり解釈の余地)はあると思う。リアぺ載せるとこからいく。

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初読の感想としては良いと思いました。健康神話もルッキズムを巡る言説も、もはやあれこれ言いすぎて/言われすぎて、生の経験に対して軽々しい言葉しか紡げなくて歯痒いけれど、そんな出来事ひとつひとつを、怒りではなくユーモアを添えて描いてくれたことが嬉しいです。別の生き物になりたいという言葉だけ、黒子の肌が見えたように作者の意識が見えてしまったのが少し残念に思いました。

タイトルの意味については、スミスを道具ではなく友と見ることが、女性性を抜け出した男性性ではなく、さらにその先の性別不問のマシーンに、カチカチの筋肉の理想形を見出していると解釈できるのではないかと考えました。変身の文学を扱う授業で、動物やサイボーグを扱う女性作家たちの作品に、身体に課せられた制度を破っていきたいという衝動が読み込めると論じられていたのを思い出しました。

葛藤が足りず深みに欠けるという指摘はその通りだと納得したのですが、身体を自由にコントロールすることに比較的成功している点について、ボディビルの過程における葛藤が足りないというよりは、生きていくうえで直面させられるさまざまな葛藤への拒絶としてボディビルにのめり込む様子を捉えるべきだと考えました。その感覚にはジムに行ったことがないわたしも強く共感できます。女性性から脱却しようとするほどに女性性に捕らわれていくという皮肉な構成はやはりうまいし、この点はもっと評価されてほしいです。

高瀬隼子「犬のかたちをしているもの」には、自分の身体や人生に関わる問題について、考えて、選択して、責任を負って、それ自体がもうすでにとんでもなくしんどいのだということが書かれていたと思います。本当はもう何も考えたくないし、何も悩みたくないし、何も葛藤したくない。マッチョになっても解放されるわけじゃないのに筋トレを続けるのは、考えることの放棄、考えさせられることへの反抗として捉えられるのではないでしょうか。だとすれば、ハイヒールを脱ぎ捨ててナチュラルな自分を肯定するという結末はやはり再考すべきで、ただ粛々と筋トレを続けることを解放ではなく閉鎖や逃避という方向で描いた方が、逆説的に既存の価値基準に風穴を開けることになるのではと考えました。

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作品の話終わり。こっからは愚痴です( ;  ; )

スミスを読んだのが去年の冬で、その少し前だから去年の夏かな?なんかめっちゃマッチョになりたいって騒いでた時期があって、その感情の中身もよくわからないままネタとして言ってたのだけど、人に話したら「わかるーっバキになりたいよねーっ」って返されて、その後スミスが話題になって、やっぱみんなバキになりたいんだっ!!!って思った記憶がある。
なんかね、そうなの。いろいろこまこま考えてるけど疲れちゃってもう筋肉で全部解決できるんじゃね?とか思っちゃうんだよね。そんなわけはないのよ。でも。

今朝母親から「代理出産という選択肢」っていうタイトルの新聞記事が送られてきた。朝ドラ見ながら新聞読んでいるのだろう。にしても朝8時に母から娘にこれ送られてくるのはいかつい。だいぶいかつい。内容はちゃんとしていて、朝日新聞のオピニオン面はいつもそうだけど、何かを勧めるというより検討する目的で組まれた、しっかり良い記事である。
どういう気持ちになるのが適切なんだろう。こういう類の接触に対して、咄嗟に拒絶するとか反発心を覚える以外の反応を取れるようになりたい。これ娘には送っても息子には送らんじゃん、考えさせられること自体がもうすでに圧力じゃん、って気持ちももちろんあるのだけれど。

たとえば職場の上司がそれセクハラじゃない?って発言をしたとする。そういう環境に順応して笑い流せるようになったほうが生きやすいかもしれない。でも違和感を覚える感度は鈍らせたくない。かつ同時にそれをシャットアウトするのではなくて、なんかもっと、頑なにならずに、やっていけるようにほんとはなりたい。うーん、自分に対する要求度が高い。(『論語』、調べてもうた。「六十にして耳順う」って書いてた。)

なんかたぶん、そうね、おかん的には悪気はなくて、圧をかけたいとか特定の方向に導きたいとかじゃなくて、個人の問題というよりは社会の問題として、いっしょに考えたいというスタンス(だと主張するだろう)。
その奥にはきっと娘個人に寄せられた期待があって、それだよそれが圧力なんだよなあとは思うけど、自覚してないのか、どうなのか、、。でもこういう抗議は前にしたし、ゆうて母は賢いひとなので、全部じゃなくてもわたしが何を言ってるのかある程度は伝わっているんじゃないかと思う。

しかしよく考えると、親の期待を押し付けるんじゃなくていっしょに考えるって姿勢すらも、過剰かも。中学生の進路じゃねんだからさ。
わたしもう大人なんだよって早く言いたい。だからね早く働きたい。年齢とか、生活能力とか、社会的信用度とか、精神的な安定性とか、世界を見極める力とか、自立の要件をいろいろ、集めてきたし、車の免許もあるし(?)、あとは働いて経済的に自立すれば、完了なんじゃないかと思う。ケアの倫理は自立=善を問い直すけど、結局自立は今も昔もわたしの中の理想形としてある。庇護されるべき存在としての「女」「子ども」から早く抜けたい。

自立の要件を満たしたからって、その先なんの葛藤もなくパキパキ生きていけるわけじゃない。そんなことはわかっているけどわたしは早く大人になりたい。これってたぶん、マッチョになっても解放されるわけじゃないのに筋トレ続けるのと同じな気がする。

「ああ、やっぱり僕は早く大人になりたい」って書いてる、川上弘美『光ってみえるもの、あれは』の少年は、いま見たらなんと16歳だった…!
前に「いい歳こいて反抗期とやってること変わらんくて恥ずかしい、安定したい」って友だちに言ったら、「いやしょうみ二十何年生きてきてて今が一番不安定やで~」って言ってくれた。
そうやなとおもった。

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