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サエボーグ,津田道子

2024/4/28
@東京都現代美術館

すごかった!こんなん無料でやったあかんよ、ぜんぜん空いてたけどめっちゃ楽しかった〜。
カテキョやってた少年におすすめしたら、二つ返事で「行きます」と来た、有望◎

まずはサエボーグさんのI WAS MADE FOR LOVING YOU。タイトルがもうしんどい。
風船みたいなへんな膨らみ方をする着ぐるみの、ペットとか家畜の姿をした中に、生身の人間が入ってる。
それはイヌの動きをするのだけど、足先にヒトの形が残っていたり、手首から人肌が覗いたり、〈動物〉と〈人間〉の間のサイボーグであることを意識せざるを得なくてかなりきもちわるい。

大学4年の時、人ならざるものに変身しちゃう系の文学作品を扱う授業を取ってた。フランケンシュタインと仮面ライダー、寄生獣に始まり、昆虫、動物、菌類、植物など、古今東西の変身譚が登場する。
(現代日本の作家だと、多和田葉子、松浦理英子、川上弘美など、そうまさに!ってかんじのラインナップ。)
当時、先生がずっとフェミニズムとサイボーグの話をしてて、あんまりぴんときてなかったけど、〈動物〉と〈人間〉の境界を問い直すとき、その中間領域にあるもの、得体の知れない恐ろしい“弱者”としてのサイボーグは、思考の対象(モデル)とするのにめちゃ有用なんだと思った。
(ちいかわの話ばっかしてて馬鹿だと思われるかもしれないけど、なんか小さくてかわいいやつらのお話の中にキメラが出てくるのは、そう考えるとあながち見当違いではないというか、むしろめっちゃ示唆に富んだ展開だと思う。)

イヌは、よく見るとかなりひどい有様で、ところどころにハゲがあり、舌にできものがあり、その舌はだらしくなく垂れて口内に仕舞えず、愛らしい目は涙を流している。お腹も不自然に大きい。妊娠している?

カラフルでデフォルメされた家のハリボテの中の、円形のエリアに囚われたイヌは、よたよたとこちらにやって来てこうべを垂れる。手を差し出すと、鼻を当てたりお手をしたりと愛嬌を見せる。なんだか気まずいので、優しくしたいと思って、「デキモノ、痛い?大丈夫?」とか、話しかけてしまう。健気に反応してくれるので、会話した気分になるのだけど、こちらが一方的に解釈することしかできないからどうしたって暴力をはたらいてる気持ちになる。(同じ問題意識でいうと、小砂川チト『猿の戴冠式』がおすすめ。)

イヌはそこから出られなくて、私はそこにずっとはいられないから、中途半端に優しくして満足して、そこにイヌを置き去りにして出ていくことになる。イヌは私が去っていく最後の最後までおすわりをして見送っている。関わってしまうと、加害者の気持ちになって帰る以外に道がない。関わらないようにして、自らの加害者性に気づかないまま去る道もあったはずだけど。

津田道子さんのLife is Delaying。サエボーグさんとはまた違う系統で体調わるい時の夢みたい。脳バグる。
暗い、空間に、いくつもの黒い枠。それは人の映像が流れるディスプレイだったり、鏡だったり、ただの枠だったりする。なんか、迷子になりそう。
「人生はちょっと遅れてくる」。暗闇を出たところの廊下に、同じように黒い枠があって、そこには廊下の向こうの端から撮った映像が「ちょっと遅れて」流される。これはとても面白いんだけど、なんかこわい。体験してみてほしい。
むかし読んだ、川上弘美「星の光は昔の光」の一節。「昔の光はあったかいけど、今はもうないものの光でしょ。いくら昔の光が届いてもその光は終わった光なんだ。だから、ぼく泣いたのさ」。それは、じゃあ、同じ時間を共有してるあなたと私の間の光も、そうじゃん、と、思った。むかし。

その次の映像作品も面白かったけど、あんまり面白く説明できないので割愛。
繰り返すけど、これ無料はあかんと思う。一瞬、無料やからしょぼいか?と思って、行かなかったかもしれないもん。
美術展行く人って、金銭的なコストより時間的なコストを気にするほうが多そうだから、価値を保証する意味でも1000円くらいは取っちゃっていいと思う。
しかし文化資材がお金に余裕のある人にしか開かれてないのはやだから、学生無料とかだと、いいな。
カテキョの少年の感想を聞くの、楽しみ。

以下、追記。
最近中島敦「山月記」を読み返した。カフカ『変身』とセットで高校生の時に読んだけど、記憶よりぜんぜん違う話でふむ…ってなった。
虫と虎ってだけでかっこよさがかなり違う気もするけど、ほかに気になった違いのひとつはグレゴールの思考が家族や外部の人間にまったく伝わらないのに対して、李徴の長い自分語りは偶然にも通りかかった旧友に丁寧に聞き容れられるところ。
もうひとつはグレゴールが家族から殺すわけにも捨てるわけにもいかん厄介な化け物として室内に閉じ込められている(妹だけが、いくらかの憐れみを向けながら世話してくれている)のに対して、李徴は変身して家を飛び出して人里離れた林の奥で兎やら旅人やらを食うて生きてるところ。妻子とか捨てて自己憐憫に耽っておいて、獣になってる時は記憶がないから自分じゃないとか、それ、なんか、ずるくない?
気が振れて人間世界の外側に行っちゃえるほうが能天気に思えるのは高瀬隼子『水たまりで息をする』を読んだ時も思ったけれど、あれは視点人物が妻=ケアする側で、夫=ケアされる側の内面が読み取れないからそう思っちゃうのかも。『変身』でも、視点人物がグレゴール=ケアされる側ではなく妹=ケアする側だったら、虫になって床を這いずり回ってる兄は能天気に映るかな。

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