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「菌類」

2022/06/28

グアダルーペ・ネッテル,宇野和美訳,2021,『赤い魚の夫婦』現代書館,pp. 99-121.

これすごーい。うまーい。
意外とあたらしいし話題になってるのかな。文春オンラインにも記事が出てる。
https://bunshun.jp/articles/-/49186
このレビューで言ってることは正しいけどそのもう一枚先に旨みがあるかも。「菌類」しか読んでないけど他もそうなのではと予想。

不倫相手に依存する「わたし」を菌になぞらえて書いている、っていうと身も蓋もないメンヘラ話みたいになっちゃうけど、とりあえずその「わたし」と菌を重ねていく描写はなめらかでうまい。

しかし気に入っているのは幼少期の記憶——菌を根絶せんとする母の記憶——から話がはじまっている点、および「わたし」に子どもがいないことにたびたび言及される点かな。
不倫相手は妻子持ちなのだけど、「わたし」は夫との間に子どもを作ろうとしたけどうまくいかなかったってことが序盤でさらっと書いてある。「けれども、わたしは苦悩せず、むしろ仕事に専念できることを喜んだ。」(p. 101)ってあるけど、のちのち何度も「子ども」っていうワードが出てくる。あらためて序盤のさらっと感が、うまいうまいうまいってなる。
(序盤の「うまくいかなかった」はふわっとしているけど、終盤になって「子どもを持てない」という表現が目に留まる。当時は苦に思わず喜んで仕事に打ち込んだことは強がりでなく本心だと思うからこそ、生物としての役割を果たせみたいな命令ってどっから降って湧いてくるんだろうって思う。特定のだれかから言われたわけでもないのにこう何度も言及される、抑圧の出どころの不明瞭さにリアリティ。)

「子どもがいたなら、たぶん違っていただろう。子どもは、確かな手触りの日常にわたしたちをつなぎとめる強力な錨となっただろうし、かかりきって世話をするうちに、無償の愛で人生に喜びをあたえてくれただろう。わたしには無償の愛が必要だった。しかし、自分のことで精いっぱいの母以外に、わたしの人生にはバイオリンしかなく、バイオリンはラヴァルだった。」(p. 118)

夫婦関係、不倫関係についての文脈に、子どもはまだしも、ここで母が登場するのはいささか唐突だが、論理的にどうこうではなく人間関係をめぐる「わたし」の意識の根源に母娘関係があると捉えれば、この唐突さも含めてうまいと思う。「寄生生物に対する母の嫌悪と拒否反応」(p. 100)については先に触れられているものの、母にかまってもらえずバイオリンしかなかったという話はここにきてやっと「わたし」の奥から引きずり出されてきたかんじ。うまいうまいって書いてるけどこれ狙って書いてんのか?語るところ/語らないところの選択とそのタイミングについてあまり作為を感じない、けれども少し想像すればとても納得して読める。

「フェミニズム的サイボーグ物語」「動物サイドから人間社会の秩序にゆさぶりをかける」、その他の先生の説明は基本的になに言ってるかわかんないし、同じ波長を感じるタイプの先生じゃ全然ないんだけれども、この授業で挙げられる作家や作品はセンスいいと思う。ふだん触れない海外文学も紹介してくれるからおいしい。先生の文化的アンテナがどういう張り方されてるのかわかんないのに、あっここ興味あるわ〜みたいなところを辿っていくからむしろこわい。

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