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「水たまりで息をする」

2022/11/01
高瀬隼子,2021,『すばる』3月号:68-152,集英社.

風呂にiPadを持ち込んで湯船に浸かりながら「水たまりで息をする」を読んでる、我ながらおもろい。

夫が風呂に入らなくなった話。妻はあれこれ考えてなんとか風呂に入らせようとするのだけど、夫を傷つけないようにすごく気を遣う。突飛なはじまりに対して運びはとても丁寧。別れるやろそんな、風呂入らんやつ、と思ったけど、「夫婦の問題なのだ」っていう1行がとても気になっていた。
1章を読み終えるころに、これを思ったのは犬のかたちを読んでるからだな、セックスしたくないことと風呂に入りたくないことが、反転して重なると思った。これがこれのメタファー、みたいな読み方って、狭くなるからあんまりしたくないけど、一度発想するとめちゃくちゃそう思えてきた。入浴に抵抗あったら仕事に差し支えるんじゃ、も、性行為に抵抗あったら結婚に差し支えるんじゃ、みたいに見える。夫が風呂を嫌がるようになった原因である(と妻が推測する)、職場の後輩に悪ふざけで水をかけられた話も、それに対する夫・妻それぞれの反応も、嫌になった原因として断定するには出来事から嫌になるまで時差がありすぎる点まで、ぜんぶ似てる。生理的に無理な感覚が理解できない、できるだけ相手に寄り添いたいけど、戸惑いのほうがでかい、とかも。1章の終わりで、犬は風呂に入らなくても臭くても無条件に愛せるのに、って出てきて、これ犬のかたちの続き?パラレル?ってなった。高瀬さん犬すきなんだな。

回想がうまい、というか好み。犬のかたちで奥泉さんに一人称が平板になるって言われたから三人称でも書いてみたのかな。人称がどうとか考え出すと技巧的な方面に目がいっちゃってわたしは少し興醒めするな。犬のかたちよりも立体的でよいと思えたのは、人称の問題よりも回想とか挿話が魅力的だからじゃないかしら。平野さんが言ってる風呂→雨→川っていうイメージの肥大化ってのもそうだなあ。

水たまりで息をする
窒息

田舎と東京
病気になるまでがんばり続ける

突飛なはじまりって書いたけど、風呂に入らなくなることそれ自体が突飛かというと、微妙。なんで突飛だと思ったんだろう。鬱になった、その症状として風呂に入らなくなった、ならわかるけど、風呂に入らない以外の、たとえば受け答えなどはちゃんとしているところが奇妙に思ったんだ。
だから完全にリアリズムというよりはメタファーというか、台風ちゃんの挿話の仕方とか、のちにあかたろうの話も出てくるけど、終わり方も含め全体寓話的なかんじがした。終わり方が予想できたのはちょっとだけ物足りない気もしたけど、自然礼賛的なかんじに流れなかったしいい。寓話的だとは思ったけど寓話だとは思ってなくて、それってこれがこれの暗喩ですよとか意味が一義的に絞れないからいいんだと思う。

境界線の内でも外でも生きていけるかはわからない

背負いたくない、背負いたい、背負わせてほしい、背負わせたくない、背負われたくない、背負ってほしい
我慢したくない、我慢だってしたい、我慢くらいさせてほしい、我慢させたくない、我慢されたくない、我慢してでも一緒にいたいと思ってほしい
とか

頼る/頼られる、依存する/依存される、寄りかかる/寄りかかられる、などの関係って、一方的で非対称なものと考えそうになるけど、もっと複雑にいろんな気遣いやジレンマが交錯してるものなのかなってこれ読みながら考えた。
楽しいから、ちょうどいいから、そこにいるから一緒にいる、だけじゃやっぱり片付かないのかな。
なんとなくこうしてきただけだから、選択も、理由も、責任もないのに。ないわけなくて。たしかに少しずつ、選択してきて、理由があって、よくわからないけどだから、責任もあって。このあたりもまた、犬のかたちの続き。

風呂、雨、川、のイメージで思い出すものはたくさんあるけど(離さない、蛇を踏む、ピクニック、うそつき大ちゃん、ここはとても速い川)、高1の時にやった劇のことを思い出す。
雨で、川が増水して、っていうシーンがあるから、単純にそれで思い出したんだけど、わたしが演じた風子という役、あの子の話は実はけっこう共鳴する。おばあさんの大事な猫を逃がしてしまうんだけど、それは故意で、悪意があって、でもおばあさんに向けた悪意ではなくて、その理由が(理由のひとつが)、後悔してみたくて、というものだった。これをやったら後悔するだろうなってこと、する前にいつも思う、思うからしない、いつもしない。今日がはじめてだった。踏み外せなさを抱えて、ぎり踏み外せてしまった、それでも赦しを得られた、それが高1。踏み外せなくて「あーあ、やだなあ!」で終わるのが高2。わあ、いまになっていろいろつながってきた。わたし当時ちゃんと読めてたかな?再演したくなる。でもできないな。もう高校生じゃないから。おばあさんの大事な猫、故意に逃がしたら、あかんやろ。大人は踏み外しても、ドラマになりません。犯罪か、迷惑行為か、病気か、甘えか、アダルトチルドレン、とかいうことになる。

小川洋子が狂気をもっとって言ってたらしいけど、それは違うとわたしは思う。狂気と名づけられてしまうところまで仕立てると、手の届かないところに夫は行ってしまう。すぐそばにいる、手は届く、言葉は交わせる、けれどわたしとあなたの間には厳然たる境界線がある。いつでも飛び越えられるけど、わたしはこっち側にいる。これができなくなる。からもったいない。

「それは彼女の精いっぱいではあったものの、はたから見れば小走りの域だった。はたから見る者などいないのに、彼女は頭の中でそんなことを考えていた。川へ向かう。夫が心配だ。それはほんとうなのに、頭の中は広すぎて、余計なことまで考えられてしまう。」(p. 151)

夫を案ずるのも、愛するのも、100%で思いたい。けど実際は体が動くより頭が動くほうがずっと速くて、大概のことはそうで、夢中でとか、衝動的にとか、よほど真剣な思いでも、そのことでほかの全部が見えなくなってなんてことは、まあない。まあないのは、限界まで切実じゃないからなのか?それって、辛くても苦しくても、狂ってしまうまで、病気になるまでそれを認めてもらえないのと同じで。あっち側とこっち側を隔ている境界線を超えないと、証明できないことで。証明。証明…?だれのための痛み問題に帰ってきた。パフォーマンスでやってんじゃないのにな。どんなに切実な思いでも、思考の余地がありすぎるから、いつもどこかでパフォーマティブになってしまって、自覚できるから、きもちわるい。どん詰まりだ、ここは。

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