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『約束された移動』

2023/2/読みかけ
小川洋子,2019,河出書房新社.

「ダイアナとバーバラ」が良くて、ちょっとどきどきして眠れない。
なんとなく気に入ったというのではなくて、完全に受け取ったと思うのだけど、私には私の文脈があるのでことばで説明するのがむずかしい。
この本はもともとクリスマスに『密やかな結晶』と間違えて買ったものでなんとなく積んでいたのだけど、今のこの私じゃなかったら、今のこれと同じものは受け取らなかったと思う。
本って読み手との相性によって刺さる/刺さらん、解る/解らんがあるけど、同じ読み手でも人間は「移動を続けている」から、響く本との出逢いはいつも運命だと思う。

陰に佇むひと、そういった係や役回りに存在しているひとたちの息遣いを、小川さんはきっと聞くことができて、その潔癖なまでに静謐なことば選びも、かれらの気配を「描き取るため」ではなく「かき消さないため」になされているのだと思った。
小川さんのよく言う、書かれていないところに読み手を引きずりこむ力、というのが、分かりそうで分からんなとずっと思っていたけど、そのことばが私の中で少し形を結んだ。まだ誰も描いてこなかった問題にライトを当てる、フロンティアの開拓みたいなことをやってるんじゃなくて、永遠に描き残されるものというのがこの世界にはあって、描かれないけれど「在る」ものがあるということを、小川さんは知ってるんじゃないかしら。

『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んだ時の私は、大きくなることの悲劇というテーマと文章表現の美しさを受け取ることで精一杯だったけど、マスターもリトル・アリョーヒンもデパートの屋上の象もミイラも、隙間でしか生きられない、隙間でこそ生きていたものたちで、その悲劇性を訴えようとか、かれらを日向へ引きずり出そうとか、そういうことをやってんじゃないんだ。
『約束された移動』も、まだ「約束された移動」と「ダイアナとバーバラ」しか読んでいないけど、ホテルの客室係然りエスカレーターの補助員然り、かれらの仕事は大小の歪みを「何も気にならないゼロの状態」に戻すことで、歪みと共にかれらの存在も「何も気にならないゼロの状態」にされて初めて、かれらの仕事は完遂される。かれらが気にかけられる=心配される=労われる=感謝される=大切にされる=愛されることは、かれらの仕事の失敗を意味する。

「このような出はいりによっていびつになった部屋を、毎日、私は元通りにし続けた。ほんの数時間後には自分の働きなどふいにされてしまうと承知していながら、うんざりもせず、同じ作業を繰り返した。余分を排除し、不足を補充し、前に泊まった人のことなど微塵も意識させず、まっさらな部屋が自分だけのために用意されたのだとお客さんに思わせるのが、私の仕事だった。」(pp. 11-12)

エスカレーターの補助員は妖精のようだとバーバラは言うけど、バーバラは妖精ではなくひとりの愛されるべき人間で、補助員の仕事は妖精による魔法ではなく人間による労働だ。
この、長い歴史の中で不可視化されてきたケア労働に、相応の価値を見出す動きが現代の倫理で漸く起こり始めているけれど、ケア(気にかける)が不可視である(気にかけられない)ことを本質的な要件として含むのだとしたら、ケアする人はケアされることを求めることができない。バーバラが主人公である「お姫さま」になることができたのは、バーバラの役回りが孫娘に継承されたからだけど、バーバラはそのことに気づかない限りにおいて「お姫さま」でいられる。(気づかせたらそれは孫娘の仕事の失敗ということになる。)

ついでだからもう少しだけ考えを書き留めておくと、不可視化されるケア労働は2パターンあると思っている。
①親子関係とか夫婦関係とか友人関係とか、無償の愛として私的な領域に押し込められるケア労働
(「かか」「水たまりで息をする」など)
②美容師とか店員さんが喋ってくれる飲食店とか、別の名前の係として存在するケア労働
(「ダイアナとバーバラ」におけるエスカレーターの補助員や病院の案内係はこっち)
①は仕事と見做されていないし、②も「本来の仕事」としては認められない。
「本来の仕事」として存在できるケアってもはや医療の領域で、それはそれとして必要なのだけど、私たちはもっと卑近な日常の中のケアも絶えず必要として生きてる。そこにも相応しい価値を見出そうって動きは方向として正しいと思いたいけど、可視化され相応の価値を見出されたケアってつまり、日常から切り離された極めて限定的な範囲のケアを意味するのではないかと思う。不可視化されたケアを「本来あるべきでない形」だったとして一掃して、それで成立するのなら、なんのためにバーバラは自らが愛されることと引き換えに妖精としての矜持に全てを捧げていたの?

ちょっと自分の関心に引っ張りすぎたので小川洋子に戻る。前に後輩が「先輩は川上弘美が好きだけど、私の体温は小川洋子に近いんです」って言ってたのを考える。両者を並べるなら、私は時間かな、川上弘美はゆっくり読むことも手早く読むこともできるけど、小川洋子はあるべき速度でしか読めない、ってその時は答えた。
今はもう少し違うことも考えていて、さっき「描かれないけれど『在る』ものがあるということを、小川さんは知ってる」と書いたけど、それでいうと弘美さんは「見えないけれど『在る』ものがあるということを知っていて、それを描いてる」という感じかな。
弘美さんの小説は存在や時間が伸び縮みすることが特徴で、時の流れが均質で一方向的なものとしては捉えられていなくて、だから幽霊もいるし、へんてこなものもいるし、空気は「空」ではなく何か水みたいなもので満たされていて、寂しいんだけど、虚しくない。その水の温度は、ぬるくなったお風呂の、自分の体温と区別がつかなくなったやつ、きっと羊水の温度とおなじ、あのお湯から出るととてもさむい。だから生まれてしまった私たちはいつも湯ざめしてます。
江國香織はもっと冷水の温度だよねって話を前にした。小川洋子はわかんない。私てきには水じゃない。陶器とか鉱物に近い。海底に堆積している。

[注]
引用に際してルビを省略した。

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