『JOKER』を見た。
傑作でした。
見どころ盛沢山&迫力満点の作品なので、恋人との初デートに最適です。
ぜひご覧になってください。
冗談です。
しかし非常に興味深い内容でした!
結局、我々は「いつでも」「誰もが」JOKERとなりうる可能性を持っている訳で。
『正常』という概念に対する盲信に警鐘を鳴らしてくれた非常に素晴らしい作品であると感じました。
主人公のアーサー(後のJOKER)は、
・他者から理解され得ない持病を抱え
・親からの愛に飢え
・学もなく
・金も職もなく
極めて社会的に恵まれない立場の人間です。
そして重要なのは、それらの不遇が全て【環境】によって決定されたものであるということ。実際に作中では、アーサーを取り巻く、努力だけではどうにもならない条件が嫌と言うほど描写されています。
舞台のゴッサムシティは、そう言った人々を『異常』とみなし徹底的に排除します。見なかったことにして、その責任を全て当事者の中に内在させます。
これは、ゴッサムシティに限らず私たちが生きる現代社会の典型と言えるでしょう。
少数の『異常』を作り出すことで、多数者が『正常である』と安心出来る。
そんなメカニズムを秘めています。
しかし、その『異常』とみなされた者と、そうではない者。その本質は何ら変わりません。所詮、その場の社会風潮や価値観で決められたものですから。
一つ生まれた家が違えば… 一つ生まれた国が変われば…
一つ雇用の条件が変われば… 一つ学校で属してるグループが変われば…
結局、どう足掻こうと、我々は誰もが突然『異常』に入れ替わる可能性を持っています。そんな不安が余計に別の『異常』を作り出して、自分たちは何とか『正常』でありたいという欲求を生み出します。まさにスパイラルです。
そんな現代社会が抱える怖さを、極めて印象的&分かりやすいモデルで指摘してくれた作品でした。
社会学を習ってて、本当に良かったと思えました。
是非、高校生以上の必修科目にしてほしい。
↑あまり関係はないですが、そんな素晴らしい社会学者、土井隆義先生の著書を是非読んでください。
『視聴中と視聴後。一粒で二度美味しい。』
『バットマン』作中では相当にクレイジーな存在として描かれているらしいJOKERですが(ごめんなさいその辺はあまり知りません…)、蓋を開けてみればそのルーツは「只の平凡な一市民」に過ぎなかったわけです。むしろ、視聴者である我々側に寄ってると言っても過言ではないでしょう。
ジョーカーというキャラクター性に反して、どこかしら共感性を持って作品を楽しんだ人も多かったのではないかと思われます。
ここで私が気になったことは、
「この作品を見た人は何を感じるのか」です。
視聴後は、これを調べるのが楽しみで仕方がありませんでした。
で、実際レビューや考察の類を見てみたところ…
ものすごく賛否両論ですね。
結局、共感性を持っていた人は、それこそアーサーに対して同情的な感覚を持っています。逆に、アーサーの立場に共感を得られなかった人からは、厳しい意見が見られますね。
そりゃあ、バットマンのスピンオフとしての役割しか期待しなかった人からすれば、冴えないおっさんの苦労話を見せられて面白いわけがない。
正に、視聴者の中で既に対立が起こっています。
上記の問題点が、面白いくらいしっかりと反映されていますね。結局アーサーという人物を受け入れられたのか、そうではないのかが評価軸になっています。
うーん、こう見るとやはり伝えるって難しい。
ただ一つだけ感じることは、
「どうすればジョーカーが生まれなかったのか」
ということ自体は誰もが考え続ける必要があると言うことです。
結局、こういう作品に集められた一定数の評価は
「人を理解したい」という欲求に根差しているように感じられますし、とても必要な欲求だと思います。
ジョーカーと同じ目線で共感しながら考える、そんな「人情」こそは失いたくないですね。
(自分も理解できない行動を見たら、理解しようとする前に腹を立ててしまうことがあるので反省しなければいけませんが)
そういう思いやりと言うか、人らしさみたいなものが、現代のストレス社会を少しでも緩和できる材料になるのではないのかなぁと、改めて考えさせらるそんな一日でした。
まぁ、それで解決したら全く苦労しないのですけどね…
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