『今回の授業内容について、肯定的/否定的の両面から見た自分の考えとその理由』(指定)

提出日:2022年12月4日

 今回の授業で特に印象的だったバウムテストについて論じていく。まず、肯定的に捉えた点としてその手軽さが挙げられる。実際にクライエント側になってみて、抵抗もなくむしろ楽しく描くことができた。また、自分の絵を分析することでセラピストの立場も体験することができたが、風景構成法より分析がしやすかった。根拠に欠けるが少なくとも今回の授業を通じては、バウムテストはクライエントにとってもセラピストにとっても手軽なテストだと感じられた。

 私は授業内のテストでぶどうの木を描い た。「木を描いてください」と言われてすぐ、幼少期に行ったぶどう狩りのことを思い出したからだ。これは客観的な分析とは異なるが、もしこのような「教示から連想した記憶」の情報が得られたら、それはクライエントを理解する上でとても重要なファクターになると思った。

 今回のテストを例にとってみれば、幼少期の楽しかった記憶を真っ先に思い出した私は、過去への回帰願望があるのではないかと推測できる。実際に、私は今置かれている状況に満足していない。それでも、過去に戻りたいと意識したことはなかった。そのため、小さな頃の思い出をすぐに想起した自分に少し驚いた。しかし、否定の感情も湧かなかった。これは、私の中の無意識が意識化したことに他ならないと言えるだろう。まさに、描画法によって得たい効果そのものである。

 反対に、否定的に感じた点を述べていく。それは、美的センスと無意識を取り違える可能性があるという点だ。これはバウムテストだけでなく、他の描画テストや箱庭療法などにも言えることであるが、より自由度の高いテストで起こりやすいことだと思う。

 美的センスというのは、バウムテストなどにおける「画面をより見栄えよく構成するセンス」のことだ。絵を描くことと画面を見栄えよく構成することがイコールになっている人、言い換えれば芸術や表現を嗜む人などは、深層心理よりも視覚的に美しい(優劣はなく、単に自分が好きな)ものを選びとる能力の方がはたらきやすくなるのではないかと考えた。「なんでも好きなように描いてください」と言われたら尚更そうなると予想される。私個人の意見だが、視覚的に好きなものを好きな理由に、感情や経験からなる無意識は関わらないこともあると思う。例えば、イチョウの葉の形が好きだったり、リンゴのフォルムをかわいいと思うことに深い意味はないことの方が多いだろう。

 私がこの問題点を見つけたのは、三谷幸喜さんのバウムテストを見たときだ。「枯れ木にリンゴが結び付けられている」というのは少し絵画として優れすぎていると感じた。バウムテストを作品として受け取ってはいけない、というのは学習したが、クライエントが作品として描いているというケースは絶対にあると思う。もし、無意識に関係なく画的に面白いものを描いたとき、描き手も単に見栄えのいい構成をしたことを自覚していないなら、その「作品」を無意識の表れとして分析するのは極めて危険なことだと考えた。

 描画してもらったものの誤読を防ぐためにも、テストだけでなくやはりクライエントの性格や職業をしっかりと理解していくことが大切だと実感した。(1303字)

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