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味園ビル閉園に寄せて。

それは2004年、当時何者かになりたかった私が大阪でのもう一つの「九龍城」と呼ばれる三ツ寺会館ではしっくり来なく足を踏み入れた場所である。
味園ビル2F。
怪しげな螺旋スロープを上がればそこは真っ暗!
当時はテナントなんて呼ばれるものは4〜5軒程度だった記憶がある。
スナックまちこ・駅馬車はもう長年もやっていて。
あとは月夜喫茶・女、フェイラーズキッチン・夕顔楼(旧)だったかな。
ネーブルもあったか。女の横はマッサージ屋さんだった記憶。


8割空き屋、2割がサブカルバー。


2004年から味園2Fの運営方針が変わって、当時は家賃が6万円ぐらいで保証金が3ヶ月分なので行き出してから日本の70年代の高度成長期か!ってくらいサブカルチャーなバーや絶対普通の生活できへんやろ!って言うくらいの人が店をやっていたりお刺身やさんができたりと目まぐるしく今の様なスタイルに変わっていく。

わくわくした。
色んな人に「味園で店だしてよ!」
といいまくった気がする。

私は2〜4年毎日のように脚繁く通った。
思い起こせば2004年〜2007年くらいは所謂「変な人」にたくさん会った。
額に「死」と針と隅で彫ってた人。
毎日死にたいと言っていた風俗嬢。
オーバードーズでイギリスから強制帰国させられてラリってたニューハーフ。
日本のカルチャーを愛しすぎて帰れなくなったイギリス人。
とめどなく、90年代にアメリカ村にいたような何をしてるかわからない人たち。たち。

人に落書きしたり。
夕顔楼で歌わせてもらったり



毎日の様に、どこか狂っていて行き場所のないような人と朝まで話したりしてて。今考えたらめちゃくちゃ商売にならん客やったな。
そんな私も狂っていて行き場所のない様な人だった。
それは今も変わらないか。

朝まで飲んで今から三重県の秘宝館行こうよ!と無職の友達を呼び出して運転させて秘宝館に明け方から行ってまた味園に戻って飲んで・・とか、太陽の塔の中見に行こうよ!と集合してエキスポランドで遊んで。みたいな。学生時代に「普通の青春」が遅れなかった隠の者の私にとって色んなお店で過ごす毎日は青臭いけど青春の一ページだったと思う。

DJを始めたばかりの頃だったので色んなイベントも開催させてもらった。
亡き、どCOREでイベントをさせてもらった時床が剥がれて上のホテルから苦情が来たのもいい思い出。



今お休み中の「スナックぐりこ」も一番最初は味園ビル開催だった。

そんな馬鹿みたいな毎日も終わりがくる。
いまだに思い出すのが、どこかの味園のバーで
売れない絵描き、売れないシナリオライター、無職、私
というわけの分からないメンツで飲んでいた。
朝8時。そろそろ帰ろう!と
味園のスロープを降りたら
朝日と通勤に向かう人々。
その中を家に帰る時に

なぜだか唐突に
「あ、就職しないといけないな」となった。
本当に、唐突に。漠然と。

次の日から就職活動に励み、見事、就職をし
仕事が忙しく
全くもって味園に行けなくなった。
いや、行かなくなったのが正しいのか。

何者にもなれなかった私は、大人になったのだ。

あの時出会った人で亡くなってしまった人、遠くに行ってしまった人。
今でも仲良くしてくれる人。
仲違いしてしまってそのままの人。
恋をした人。

たくさんの人を思い出す。
もちろん、あの時からずっと営業している人たちも。

きっと私だけではなく同じような体験をしている人も多いと思う。

狂っていた私が味園という場所があったので
少しだけまともになった。

怒涛の2004年〜2024年。
たくさんの人の思い出を馳せて楽園は閉園するのだ。
今年いっぱいということで。
暇ができたら少し訪れてみようかな。
2004年の頃の私と出会える気がする。

間違いなく味園ビルは人生においての大事な場所の一つであったと思う。
こんなこと、まとめてあんまり書くの恥ずかしいから書かないけど割ととても思い出がたくさんたくさんあるので。
また少しづつお店で話させてください。


最後の画像は2005年、味園にてGWでなぜだかギャーギャー言いながら、みんなで昼までかかってクリアしたカトちゃんケンちゃんのPCエンジン。



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