勉強記録1月7日 サルトル1

『実存主義』松浪信三郎、第4章
要約:存在への思考が神秘的傾向を持つ潮流のさなか、サルトルは無神論的実存主義を提唱した。存在は即自と対自に区分され、意識ー自己としての対自は無として存在と表裏一体である。自己意識が常に対象化され続けるほかないというこの動態こそが「私」である。意識から出立するこの存在論には、最高存在としての神がさしはさまれることはない。むしろ、存在が存在でしかないところに、サルトルは実存としての人間のありかたの可能性を見出す。

内容:ハイデガーは存在の光への深い内省あるいは回想を通して、人間本来の故郷を回復し、そこに聖なるものの促成を見出すことを暗示している。存在神秘主義という評を受けることもある。マルセルもその主要な課題を「いかにして存在にまで自己を高めるか」という問いで表現している。存在は、実存と実存との交わりを可能ならしめると同時に、また実存と実存との交わりによって開示される。「汝」という実存範疇によって神を表現するのもこの故である。彼らは、その力点は異なれど、みな存在という語に超越的な最高存在という意味を含めようとしている。
 しかし、サルトルは無神論的実存主義であった。存在には完全性も真理もない。存在はそれ自体において「ある」と言われうるのみである。存在は単なる「あり」であり肯定であるから、否定、区別からうまれる他をしらない。創造されず、存在理由もなく、「関係」をもたない即自。
 ここで「私」は「存在」するのかという問いが生起する。たしかに他者の眼からみれば一つの生命、物体として存在しているだろう。しかし、私にとって私は存在するか、と問うならば、それは否定される。私は実存しているのである。なぜなら、このように存在を問う時点で、「存在について」問う時点で、存在とは別の働きを示唆しているからである。「~について」が生まれるのは意識においてである。意識の働きにおいて、「~について」という構造は本質的である。意識が単体で存在することはできない。それは対象的な存在と一つ組でしかありえない。そして存在が存在として措定されるたびに、「それではないもの」として意識が成立する。「~について」が存在のみの世界に亀裂をもたらす。この亀裂―意識が「無」である。しかし、「無」はまさに存在しないから、世界には存在しかない。しかし、存在を成立させるのが無としての意識なのである。そして意識がこうして語られる以上、「無」という仕方で「ある」とはいえる。このことを「対自存在」といい、逆に意識の志向対象となるのが「即自存在」である。対自存在は「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるような存在」である。つまり対自は脱自的、超越的なありかたをしている。特に、それが「私についての私の意識」となるとき、その脱自性は実存と呼ばれるだろう。「私は」と自らを対象化するとき、それは「見られる私」であり、そこには「見る私」という無がぴたりと張り付いており、二つの「私」は一致していない。「それがあるところのもの(見られる私)であらず、それがあらぬところのもの(見る私)であるもの」とはこの意味である。私は私に意識されることでしか存立しえない。しかし、意識される私は意識する私からすでに分離してしまっている。この取り逃がしの構造こそが「私」という対自存在にとって必然的である。実存主義はこの自我構造を起点として開始する。つまり、「あらぬところのもの」で「ある」ように、「あるところのもの」で「あらぬ」ように、自己を反省しつつ常に代謝していく「有様」が人間なのである。未来への投企はこの代謝である。そして、死によって私はようやく無から解放され、単なる物体、即自となることができる。
 対自の意識のみでは、これといって名指されるような「何者か」ではありえない。対自が身体や状況などの事実性によって支えられ、世界のなかに投げ出されている限りにおいて、「この私」という具体的存在が成立する。ハイデガーをそのまま踏襲して、サルトルは人間存在を「世界―内―存在」とし、具体的な道具存在や事物存在を「世界の―ただなかに―おける―存在」と区別している。この区別において、両者は固く結びついている。なぜなら、人間存在は「存在について」の意識として存在を必要とする無であり、存在は即自として対自に理解される形でしか「存在」と認められないからである。人間は存在と無の両義性そのものである。

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