要約 九鬼周造 『偶然性の問題』

〇定言的偶然とは定言命題における主語と述語の関係に成立する偶然である。
〇仮説的偶然とは仮説的判断における条件と主節との関係に成立する偶然である。二つの因果系列の邂逅として、因果的偶然が定言的偶然と目的的偶然の基礎となる。
〇離接的偶然とは選言判断における主語と述語の関係である。因果的偶然と必然性との無限後退の末、世界の根拠として取り出された原始偶然がこの離接的―形而上学的偶然である。
〇東洋的・ギリシア初期的な思考にこうした原始偶然としてのサイコロ的世界観があり、この偶然に包まれるときの実在感情が「驚き」として、芸術の根本動機たりうる。

 九鬼は、必然性―同一性を原理とするプラトン以来の知の克服の根拠として「偶然性」を取り上げ分析した。偶然性は定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然の3つに区分される。
 定言的偶然とは「AはBである」という定言命題におけるAとBの関係であり、Aの概念がたいていは包摂しているものをはみ出したものがBとなることをいう。
 仮説的偶然とは、「AならばBである」という仮説的判断におけるAとBとの関係のことである。仮説的偶然とは目的的偶然と因果的偶然に分けられる。目的的偶然とはある目的の結果が予測していなかったものを付随させるときの偶然であり、因果的偶然とはある因果系列における結果が、また別の因果系列における結果に作用することである。因果的偶然は、定言的偶然と目的的偶然を包摂する。どちらも、二つの因果系列の邂逅としての事象であるという点ではおなじだからである。
 因果的偶然は、さらに巨視的な見地から必然的系列へと回収されるが、やはりよりメタ的な偶然性がそれを破壊する。偶然と必然のこうした無限後退の末に、究極の原因Xを想定することができる。これが「原始偶然」であるが、それはもはや「単に(理由もなく)ある」ということである。
 離接的偶然とは選言判断において主語と各述語の間に成立する偶然性であり、「そうでないこともありえた」という「無の可能性」によって特徴づけられる。これが原始偶然のもつステータスであり、いくら必然性の系列で説明しようとも最終的にぶつからざるをえない究極の偶然性である。「世界がこのようである」ことの偶然である。
 九鬼はプラトン以降、キリスト教を経てシェリングやライプニッツが語るような偶然は「純粋でない」と説く。逆に、東洋的、ソクラテス以前的な思考には「さいころの出目」によって世界が創設されたにすぎない、というような根本的偶然性を捉えた節があると説く。
 我々は可能性に対してはその未来的性格から不安の感情を抱き、「必然性」に対してはその過去的性格から平安の感情をもつ。ところが「偶然性」に対してはその現在的性格から驚きの感情をもつ。驚きとは、現実の事態の偶然性に対しての感情である。偶然性が人間存在全体を捉え、実存的な意味を帯びるとき、「運命」に対する驚異の感情が生まれる。ただし、九鬼が重視するのは「世界がある」という現在―実在感情であり、これが芸術創作の根本動機であるというのが九鬼の所見である。

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