終わりは死ね

出会いがあれば別れもある。

小さい頃に見たポケモン映画ミュウツーの逆襲あの辺りでよくこの言葉がナレーションで使われていたが、当時はその意味がわからなかった。

今は突然の土砂降りの中傘を刺すほどの元気もなく、ただタバコを咥えて雨に濡れながら悦に浸ることしか出来ない。

やはり俺は一人なのか。


たとえば異性に告白されて、何も好きでもなくただのかわいらしい後輩なだけだった人となんとなく付き合ったとして、
ある人は好きでもない人に告白されて付き合うことはできないとか、やはり男は単純だとか言うかもしれないが、
それでも二人の共通項を介して一後輩としてデートを重ねたとしよう。

そのうち二人の思い出が増えて一人の後輩が好きな人へと変わって、遠くはない、近い未来に予定を立てていったとしよう。
後輩がその人に使う敬語がタメ口へと変わり、通称じゃない名前で呼び合うことになって初めて相手のLINEの名前表示を変えたとしよう。

過去の恋愛を思い出しながら、たまに一つ前の恋に想いを馳せて未練を引きずりながら、今までにないタイプの相手で悩んだりしながら、ろくな恋愛をしないと言われたから今回ばかりは一番”普通”な恋ができると思いながら、それでもやっぱり自分は変だと思いながら、自分が着実にメンヘラに変わっていくのを感じながら、
確かにその人のことを好きだと実感し、「後輩」から「彼女」になったことを実感したとしよう。

元々の二人の共通項であったもの、音楽を通してその人は彼女の”居場所”に入ったとしよう。
“居場所”を無くして暇を持て余し、同時に自分の”居場所”を探し求めていたその人は新しい”居場所”を見つけたことに喜んでいたとしよう。
彼女との時間や共有できるものが増えると喜んでいたとしよう。
彼女、後輩、仲間としてより一層愛が深まっていったとしよう。

すると境界線が曖昧になって”居場所”がなくなった彼女は二人の関係を終わらせたくなったとしよう。

いよいよ少年は”居場所”を無くし、また一人になるのだろう。
一人の後輩を失い、一人の恋人を失い、一つの居場所を失い、”また”失い、”また”一人になるのだろうか。

愛から生まれた行動によって、その愛が終わるだなんて、そんなのってないよ。

愛を終わらせるか、居場所を終わらせるか、何を選んでも、何もかも失う。時すでに遅し。

もらった愛を育んで、目一杯膨らんだところで壊される。

昨日まであったものが今日あるとは限らない。
命には限りがあるし、それは無機有機、物体や概念など関係なく、森羅万象あらゆる万物にたいして始まりと終わりがある。

この気持ちも今生まれたばかりで、明日や1ヶ月後や一年後、死んでいるかもしれない。いや、きっと死んでいるだろう。

俺たち人間は、その一瞬一瞬で生まれては消えていく水の泡を見ながらそれに一喜一憂し、そして自分もまた死んでいく存在なのだろう。

どこか冷静に自分を客観視している自分がいる。
ああ、またこうなるのか。
失った絶望ばかり感じるな、近年は。

出会いがあれば別れもある。
その意味とやらは二十歳を超えた今でもよくわからない。
分かりたくもない。
いや、分かっているけどーー

終わりは死ね。

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