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私は田中耕一さんにお会いしたいです。

今回は田中耕一さんへの私の想いを書きます。

田中耕一さんとはすごく縁を感じています。
田中耕一さんは富山中部高校を卒業しておられて、私の先輩でいらっしゃいます。私は当時は世間のことに疎く、高校に入学して校長室前の額に飾られた2002年ノーベル化学賞受賞の新聞記事を目にするまで田中さんが中部高校の卒業生でいらしたと認識していなかったのですが、今はもちろん尊敬しています。
しかもなんと田中さんは私の亡き父と同い年で、高校では同窓でもあります。クラスは違ったので父と交友があったわけではないと聞いていますが、田中さんのご活躍のニュースを新聞などで拝見する度に父も生きていたらこの歳になるんだなあと感慨に耽ります。

田中耕一さんとは今までに一度だけお会いしたことがあります。
2017年9月26日に富山県富山市で『田中耕一先生とともに薬都の未来を語る会』が開催されるという案内を確か富山大学の学内掲示で知りました。私の記憶では母と通院に行った帰りに大学に寄って担当教員と三者面談をした後、私が授業日程などの掲示を確認していた時に母が別の掲示を見ていて「こんなのがあるよ」と教えてくれたのでした。母が教えてくれなければ会の案内に気付かなかったかもしれません。会のテーマは『「薬都とやま」の新展開 ~異分野融合からのイノベーション~』と銘打たれていて、弘学の取り組みをしていて創薬研究への関心もあった私はぜひ参加したいと考え、申し込みました。
薬都の会の開催の当日、会場で初めて田中耕一さんのお姿を拝見しました。薬都の会には県内の製薬企業や関連企業、富山大学、富山県立大学、富山県薬事研究所の方々が参加され、『オール富山で新薬を開発しよう!』と呼び掛けておられました。私も創薬研究に憧れて研究の道を志し、実験が極度に不得手で創薬研究者の道を挫折したものの、創薬のアイデアも色々と思案し考えていたので、自分も富山の新薬開発にアイデアで貢献したいという思いを胸に抱きました。
薬都の会では田中耕一さんが仰っておられた「失敗した時こそ新しいことをやるチャンス」というお言葉が印象に残り、メモをしておきました。私も創薬研究に憧れながら実験の単位が取れず2回も留年していた頃に、なかなか周りの学生のように専門の道に進めないことを思い悩んだ末に『自分は専門を持たないことを強みにしよう』と思い付き、広く学ぶ『弘学』の目標を新たに得ました。田中耕一さんが仰る様に、私の弘学も挫折から生まれたのです。
田中耕一さんが常々語っておられるエピソードですが、薬都の会でも「化学、電気、機械の壁を隔てず雑談しているときにアイデアをもらった。異分野同士だと発想の転換がしやすい」(北日本新聞の2017年9月27日の記事から引用)というお話をしておられました。また、私は聞き逃してしまって次の日の新聞で読んで知ったのですが、「最近の若い研究者らはインターネットで専門外の情報を取り入れており、個人のイノベーションに期待できる」という意見も会の中であったようです。他に私の印象に残っているのは富山県薬事研究所所長の高津聖志さんのお言葉で、「組織内にいる人は制約が多い。組織を離れて旗を振る人がベンチャーをやってほしい」というものでした。当時の私は休学できる期間も使い切り、恩師でもある担当教員の退官に合わせて10年間在籍していた富山大学を中退して、個人の研究者としてインターネットやSNSを発信・交流の手段に用いて弘学の追究を続ける計画を検討していて、これらの言葉に背中を押してもらえました。

田中耕一さんとはわずかですが、言葉を交わさせて頂くこともできました。
薬都の会が終わりに近付いた頃、私は席を立つ準備をして、終わるや否や田中耕一さんの元へ駆け寄りました。私は田中さんに挨拶と所属と名前だけを申し上げ、用意していた弘学広報用の『「弘学」の提案』の用紙1枚だけをお渡ししました。新聞記者の方々の取材も待っておられて、田中さんとはそれ以上お話をさせて頂くことはできませんでした。論文『弘学』や創薬研究のアイデアを説明できるようにまとめたルーズリーフなども持参していましたが、それらをお渡ししたりお話したりする機会は残念ながらありませんでした。それでも田中さんに私の弘学の考えをお伝えするために自分に課していた最低限の目標を果たすことができて良かったです。あの後、田中さんに私のお渡しした『提案』を読んで頂けたかは私は存じていません。

薬都の会以来、田中耕一さんとは再会できていません。
次の年の2018年の春から田中耕一さんは富山大学と富山県立大学の特任教授に就任されました。しかし、私はちょうど入れ違いで富山大学を中退していました。5月に新聞を読んでいて田中さんのご就任と特別授業の開催の旨を事後で知り、田中さんの富山大学へのご就任を喜びつつも、お会いする機会を逃してしまって残念でした。でも、もしかしたら、薬都の会でお渡しした『提案』を読んで頂けて、田中さんに「富山大学に面白い学生がいる」と思って頂けて、今回のご就任をお決めになったのではないか、と時々妄想して勝手に嬉しくなっていました。
その後も、次は機会を逃すまいと、田中さんの特別授業の開催の案内がないか情報収集を続けていましたが、直前になるまでインターネット上に案内が公開されず、事後で知る結果に終わりました。大学を離れた身では学内の掲示を頻繁に確認しに行くことも難しく、精神科の通院の日の度に母に大学で下ろしてもらって掲示を確認しに行っていましたが、努力は実りませんでした。そのうちに新型コロナの感染が拡大し、特別授業の一般参加の募集もなくなってしまいました。そうして今日まで私は田中耕一さんと再びお会いさせて頂くことができずにいます。

それでも、田中耕一さんならきっと私の弘学の取り組みをご理解頂けると信じています。
田中耕一さんは以前から異分野融合を精力的に実践しておられて、そのご活動やお言葉はいつも大いに参考にさせて頂いています。田中さんは「異分野の人々が集まり、異なる意見を侃々諤々討論するチーム」、「異分野チームワーク」を提唱していらっしゃいます(融合領域研究合同講義「異分野融合が行える環境は? ―質量分析開発を一例ととして―」田中最先端研究所・質量分析研究所 https://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/archive/files/140129-tanaka-pj.pdf )。田中さんのお考えに賛同しつつ、私はさらに、広い分野を学ぶ弘学者・無門家が科学者・専門家を結び合わせることで異分野協力を促進する『弘学チームワーク』や『弘学ネットワーク』というアイデアを提案しています。私自身は組織には所属せず個人に徹して研究活動をする方針を採っており、他の研究者の方々と組織の中で共同して研究を進めておられる田中耕一さんとはまた異なる在り方です。しかし、自らの研究を通して分野と分野を繋ぐ『弘学フォームワーク(型枠工事)』や『弘学ブリッジワーク(架橋工事)』を実践し、アイデアの力で異分野の人々を結び合わせる機会を創っていきたいと思っています。
田中耕一さんはバランス感覚に富む方でもあり、そこでも私は影響を受けています。田中さんはご著書『生涯最高の失敗』で、ノーベル賞の受賞対象となったご自身の研究を「私の行なった発見は、いわばゼロから一を生み出すことでした。」と前置きなさりつつ、「ゼロから一と、一から一〇〇〇。どちらが重要か。もちろん、両方とも重要です。どちらが欠けてもいけません。ただ、ノーベル賞という賞は、基本的にゼロから一を生み出す発見を対象にしているものなのです。当然、一を一〇〇〇にした業績を対象にした賞も存在します。」と仰っています(pp.65-67)。ちゃんと自らの研究以外の研究の価値も認めて尊重できることが大切なのだと学びました。本質的な研究は確かに重要ですし、今必要とされていますが、一方で枝葉的な研究があってこそ本質的な研究を実現することができます。木は土台となる根幹が無ければ枝葉を伸ばすことができませんが、枝葉が無ければ養分を得て根幹を育てることはできません。本質も枝葉もどちらも互いを必要としています。本質を重んじ、枝葉を軽んずるのは正しい態度ではありません。神は細部にも宿るのです。もっと言えば、賞を獲る研究だけが貢献ではありません。賞を獲れなかった研究も確かに人類の知の発展に貢献しているのです。また、ノーベル賞受賞者の仕事もその人自身の努力だけでなく、顔も名前も知らない人も含めた多くの人々からの生活や人生の支えがあって実現したものです。決してノーベル賞を受賞した人だけが偉いのではありません。人のために自分の心と力を使った全ての人が褒賞に値するのです。

田中耕一さんのお話を伺って私自身反省したこともあります。
田中さんは特別講演「若手・企業研究・異分野融合が活きるために」(日本学術会議第165回総会 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/19/3/19_3_90/_pdf )の中でこう話しておられます、「これは東北大学で講義したときかな。ある大学生から質問がありました。「田中さん、夢は何ですか。どういう夢を持っていましたか」という質問が来ました。そのときに、私はマイクに、失敗して、本当はそれを言ってはいけないと思ったのですが、「僕、夢持っていたかな」とボソッと言っちゃったんですね。あ、失敗したなと思ったんですが、その質問をした子にとっては逆にすごく気が楽になった。」「多分、今の親御さんは、子どもに向かって、必ずと言っていいほど、夢を持ちなさい、夢を持たないと生きていけません、そういう呪縛をしているのかなと思えてきました。私自身、全く夢を持っていなかったかといったら、それは嘘かもしれませんが、こういうことをわざわざ言う必要があるのかなと思えてくるわけです。」。私はこれを読んで、自分も過去に妹や若い子に夢を持つことを強要してきたことを申し訳なく思いました。私自身は小さな頃からすぐにやりたいことが見つかるので、夢を持つことに困ったことはなく、それが当たり前だと思っていました。しかし、子どもたち、若者たちの中には夢を持たない人、夢を持つことが難しい人もいるのだと知りました。しかし、そのような夢を持たないというのも人間の在り方であり、そのような人でも田中耕一さんのように活躍する人も確かにいるのだと分かりました。
漫画『銀の匙 Silver Spoon』でも大蝦夷農業高校の校長先生が入学したばかりの主人公 八軒勇吾に「どんな進路を考えてるの?」と尋ね、八軒が「…… あの…すいません。実は特に夢が無くて… ほんとすいません…」と謝ると、校長先生は「それは良い!」と言って「えええ!?」と驚く八軒を尻目に「楽しみだねー。」とつぶやいて去っていきます(第4話)。夢を持つことは一見良いことのように思える。しかし、子どもたち、若者たちが夢を持つことができたならそれは素晴らしいことだが、だからと言って夢を持たないことが悪いことなのではない。少なくとも私たち大人が夢を持たないという在り方を否定して、若い人たちに夢を持つことを強要することは正しくないのだろう。そもそも夢とは愛と同じく人間が自然発生的に抱くものであり、他人から強要されて抱けるものではない。夢を持つことを強要はできない。夢を持たないという在り方も尊重しよう。私は田中耕一さんのお話を読んで自らの過ちを知ると共に、自分とは異なる人間の在り方を尊重する姿勢を学ぶ大きな契機を得ました。

田中耕一さんの人間の可能性を信じ尊重する姿勢も私の模範になっています。
田中耕一さんは上述のご著書『生涯最高の失敗』でこのように書かれておられます、「最近、「どのように勉強すれば独創的なことができますか?」あるいは、「高い評価を得られるようになりますか?」といった質問を数多く受けます。なんとかお答えしようと、これまでの自分の体験や知識で分かる範囲で、できるかぎりお話ししてきました。しかし、子どもたちが私に一生懸命手紙を書き、直接質問する、その真剣さを見るにつけ、自分の言い放ったことがあまりにも大きな影響力を持つことが分かってきて、子どもたちにはなにも話さないほうがよいのではないか、と思うようになりました。子どもたちは無限の可能性を持っています。だから、不必要な枠をはめてしまいたくないのです。」「子どもたちはひとりひとり、置かれた環境もちがえば、性格も体格もちがいます。私にとって良い環境が、ほかの人には悪い環境になることも、当然、あり得ます。ですから、ここで書いていることは、決して一般論ではなく、あくまで田中耕一という個人にとってはこうだった、という内容であることを、ご理解ください。」(p.27)。
私は田中耕一さんの人間の無限の可能性を信じ、それぞれの人の選択を尊重する姿勢に深く感銘を受け、自分もこのような姿勢で人と向き合おうと努めています。私は学問を探究し弘学を実践する過程で何人もの研究者の著書や伝記を読んできましたが、研究者一人一人で異なる研究のスタイル、学問の在り方があり、どれも一つの正解となっていることを知りました。人生の生き方に唯一の正解というものはありません。自分の人生の生き方がうまくいったからといって、それが他人にも当てはまるとは限りません。個別的具体的な状況であればある程度細かなアドバイスができることはあるとは思います。しかし、人生をどう生きるか、何に価値を置くか、何に意味を見い出すか、何を人生の目的とするかなどといった一般的抽象的な人生の生き方となると、誰も正解を知らず、万人に適用できるような答えは存在しないはずです。むしろ、各々の選択を尊重し、その中でより善き関係を目指すことが、人間が持つ無限の可能性の全てを実現する唯一の道だと、弘学を実践してきた私には思えるのです。私たち大人が子どもたち、若者たちにできることがあるとすれば、そのような人生の可能性の一つ一つを自らの人生を以て選択肢として提示することだと思います。子どもたち、若者たちには大人たち、先人たちが示した数多くの人生の生き方を取捨選択し、必要なら自らで新しい人生の可能性を模索して、どうか幸せな人生を生きてほしいです。そして、次の世代へと人生の選択の可能性を広げ深めていって頂きたいです。私自身も田中耕一さんや他の多くの方々から今も学び続けている人生の生き方を参考にして、自分の人生を生きていくつもりです。

以上の様に、私は田中耕一さんとご縁を感じ、一度だけですがお会いする機会にも恵まれました。また、田中さんのお話から弘学者として人間として大切なことをいくつも学び、自分の夢に向かっていく勇気ももらっています。
しかし、薬都の会以来、田中さんとはまだ再会させて頂く機会は得られていません。田中さんと直接お話しするお時間を頂く幸運もまだ私には訪れていません。私の弘学の取り組みはまだほぼ世の中には広まっておらず、賛同して頂ける方が少ない中で日々試行錯誤、悪戦苦闘しています。
そんな中、田中さんの支持を得られたら良いなと思ってこの文章を書いています。田中耕一さんならきっと私の弘学の取り組みに賛同して頂けると信じています。異分野融合の先駆者としてご活躍なさっている田中耕一さんからそのご経験とご見聞をご教授頂き、弘学の未来についてご意見を交わさせて頂ければ、私にとって大きな僥倖と転機となるでしょう。

自分の頭で考え、自分の足で歩き、自分の手で作ることの必要は、今でも、どんな進歩した未来でも同じ事だ。僕の考え、僕の思いは、いつまでも僕の物でありたい。
―小松左京さん SF未来児童文学「空中都市008」を読んだ小学校4年生の読書感想文より(上述の田中耕一さんの講義資料の末文から孫引き)

でも もっとも大切なのは、自分で考え、自分の身体を動かして 取り組むこと
―田中耕一さん(同上の講義資料の末文から引用)

「会いたい人がいるなら周りに『会いたい』と言っていれば本当に会える」という話をどこかで聞きました。そこで私も『田中耕一さんに会いたい』という想いをこの場で示したいと思います。

私は田中耕一さんにまたお会いしたいです!!!