「SHARING」

優れたアートフォームとは、観客の世界の見え方を観る前と観た後で一変させてしまう、危険な触媒と言い換えることができる。
本作は十二分にそのような強度を持った一作である。

現実と非現実、日常と非日常、現在と過去と未来、実在と非実在、秩序と無秩序、本物と偽物、演劇と演劇練習、あらゆるものが溶け合い、混ざり合う。オールタイムベストの一つである、スタンリー・キューブリック「アイズ・ワイド・シャット」を観ている時のような恍惚感と不安感が襲い来る。

本作で多用されている「クロスディゾルブ」という編集方法。ショットの終わりと次のショットの始まりが重なり合うようにフェードイン・フェードアウトしていく。
文字通りここでも場面と場面が"溶け合って"いる。

カルロ・ロヴェッリの著作「時間は存在しない」に書かれていたように、この世界とは「エントロピー(乱雑度)が高い」事物であり、成り立ち時の低エントロピー状態、つまり秩序だった状態こそが特殊なのだという観点が存在する。

2011年以降多くの日本国民の間に「地震」という共通不安が生まれることになったが、むしろ「何が起こっても変じゃない」という状態こそが通常であるのではないか、という問題提起がこの作品を通して浮かび上がる。

「人間と動物の違い」について語られる場面があるが、ヒロインはそれを「常に死の恐怖を感じているか」という点で区別できるとする。
人間が言語を有することによって成し得る最も貴重な性質、かつ当たり前な活動として挙げられるのが「想像」であろう。

今私たちの社会を取り囲む事物の殆どは人間の想像によって作られており、映画が不特定多数の人間に発するイメージ(imageとimaginationの共通性はスペルを見るだけでも明らかだ)も、勿論想像による産物。

人間は想像によって「現在/過去/未来」を区別しているが、果たして理論上その違いは存在するのか。突然2011年の3月10日に戻って東北に行くパートナーを引き止める事だって出来るだろうし、大根のぶら下がったガードレールに戻ってくる事だって出来る。理論的には。

今生きているこの世界とは何なのか。そもそも「今」とは何なのか。あらゆる物事へ思考を向けること、そして映画館という閉じた空間で、見ず知らずの他者とその感覚を「SHARING」共有し共鳴した瞬間に、これ以上ないほど深い感動を得ることができる。

それは人間特有の想像力を喚起してくれるものであり、そのような芸術作品こそが最もプリミティブなアートの形といえるのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?