無題

お名前を知っただけでもう重さが違う。
ショックと暑さと無茶と感動の波に次々に翻弄され、一週間ダウンし、ようやく立ち直ってきた身体から、またもや力が奪われていった。 

知っているお名前。

行った映画やライブなどでパンフレットや設定集などを必ず買うようになったのはここ数年のことだ。
仕事の腕を上げるには視覚をとにかく刺激しようと思った。インタビューなどが載っていればなおさら嬉しかった。作った人に触れたいと思った。

線が美しい。色が美しい。光が美しい。静と動が美しい。
真似はできないしあえてしない。でも受けた影響は自然と出るものだ。それが描かれたものだったり、発された言葉だったり。
一冊のパンフレットには必ず、たとえ一行でも、一本の線でも、私が次に行くためのヒントがある。

私は人の名前を覚えるのが苦手だ。顔を覚えるのも苦手だ。視覚と文字で仕事をしているというのに苦手なのだ。
名前や顔で個体識別をする作業というのが私の脳にとっては苦手なのだと思う。一番覚えやすいのが声だ。名前も顔もぼんやりしてしまっている遠い記憶の中の人でも、声だけははっきりと思い出せる。だから声優さんが好きなのかもしれない。
だからパンフレットを見ていても、だいたいそこに出てくるお名前は意識していない。

それなのに、「知っているお名前」だと一瞬でわかってしまった。
きっと自分が思っているよりもはるかにたくさん、目にしていたんだと思う。いろいろな場所で。

さらに知らないお名前ならばショックは小さいかというとそんなことはない。お名前を知るととたんにその人はまるで昨日喫茶店で席が隣になった見知らぬ誰かのように体積と質量を存在させ、私の脳はそこから勝手に人となりを想像してしまう。職業病かもしれない。 
お名前を知らないままだと、やはり記憶にずっと残り続けている。そうやって残り続けている人たちが私の中にはわりといる。

こういうときに私はつい「自分には悲しむ資格も、ましてやこのように発言する資格もない」と思う。そうやって黙りがちだ。
どうしたって今一番悲しい、苦しい、つらいのは、「ただ生きているだけで嬉しい」という想いでその人と接してきた人たちだと思うからだ。
自分が知っているのはその手が生み出した美しい線や色や動き、そして計り知れない能力のほんの一端にすぎず、どれだけショックだろうと悲しかろうと、それらを惜しむしかできないのならば、その人や周りのかたがたに対して失礼なだけではないかと思ってしまうからだ。

ただ。

その一方で、私は、「その手が生み出した美しい線や色や動き」が、その人の命そのものであることも確かに知っている。

命を削り取りながら、自分のできるすべてを注ぎながら、どうにかこうにか誰かに少しでも届くよう、笑いながら、泣きながら、生み出されたものであることを知っている。
私でさえ僭越ながらそうなのだから、その世界の最前線で人々の支持を得ている作品に携わっているならば、私が知っているほんの一端が、その人にとってご自身のすべて———時にはそれ以上になるであろうことを、知っている。

私に届けてもらったすべてのものが、私の中に、ちいさな宝石となって光り輝いている。

お名前を知ったとき、それらのいくつかが音を立てて欠け、大きなひびが入ったのがわかった。
ひびが入って初めて、ああ、私はこんなにも美しいものをもらっていたのかと気づく。情けなかった。

誤解のないように言うと、「欠けた」「ひびが入った」という表現は心が傷ついたという意味でも宝石の価値が揺らいだという意味でもない。私が受けた衝撃が記憶として刻まれたというたんなる比喩だ。

話が逸れた。

私に届いている美しいもの。
それは自分が思っているよりずっと重く、気高い。悲しむに値する理由なのではないかと、そう思う。
たとえ、世界で一番大切な人というわけではなくても。


悲しい。





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