11/62023 意見から人格は切り離せるのか

6時過ぎ起床。昨日に続き、11月と思えない暑さ。
7時から10時までバイト。買い物をしつつ帰り、帰宅後昼寝。
2度目の起床後は、ファイナンスの勉強を少し。夕飯と入浴を済ませた後一睡。深夜までダラダラ。
つい最近、「エビデンスで殴る」が一部で話題になっていたことを受けてか、「反証を人格否定と捉えて怒る人」についての意見も、また散見するようになった。自分は意見を否定されるとスイッチが入る方なので、このような意見を見た時には少しムッとしてしまう・・・
その人の意見というのは、その人の「個」から出てきた物になるので、性格ではないにしろ、当人を否定する意味合いが少なからずあるのではないかと思う。
「あなたを否定しているのではなくて、その意見を否定しているんですよ」とそのような方々は口にするが、ではその人から切り離された意見というのは、一体何なのか。誰のものかわからない意見だけがぽっとそこにある感覚を自分は持てない。
例えば、AとBが、今後のBの進路について考えているとする。Bが言ったC
という進路ではなく、Aの言ったDという進路に活路を見出したとする。この時、Bの言ったCという意見は棄却され、Dという意見を持った。Dという意見を持ったBは、Cという意見を持っていた時のBと同じなのか、同じではないのか。意見が変わるということは、前時点での自身から変化や脱却をしているということで、やはり、その個人とは紐着いていると考える。
とはいえ、議論の際に感情的になることは、多くの場合に好ましくないことは理解している。ビジネスやアカデミアなどで、より良いアウトプットを生むことを目的とした場合等は、意見を通したいのではなく、最善の解を出すことを自身も求めているからだ。道徳的、倫理的な事柄に関しても、自身がより善い人間になることを求めているので、その時点での考えを改めることに躊躇はない。


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