見出し画像

クリティカルリーディングと「ふぞろい」

診断士二次試験受験生のマストアイテムであり、信者とアンチを生み出し続けている「ふぞろいシリーズ」。正解や詳細な採点基準が公表されない二次試験において、合格者の再現答案に何が書かれていたか、を分析することでそれを推察しよう、という天才的なプロジェクトである。

実はこの「推察」というところがミソで、「ふぞろい」に限らず、二次試験対策の参考書はすべてその時点での誰かの「仮説」だという点を理解することが重要だ。「真実(診断協会の採点基準)」は確かに存在する。でも、それが何なのかは外の人間には分からない。なので、さまざまな情報から「こうなんじゃないの?」と知力を絞って仮説を立て、新たな情報でそれを検証し、仮説を精緻化したり修正したりする。

それって、サイエンスにすごく似ているな、と思うのだ。真実は必ず存在する。でも、たとえば生物学なら、生命というのはすべてを理解するにはあまりに巨大で複雑なブラックボックスだ。しかも、聞かれたことに対して、聞かれたとおりにしか答えない、どうにも気の利かないところがある。そんな相手とのじれったくなるような対話を重ねて、とある条件において得られる実験データを基に真実の姿を推理し、とりあえず成立しそうな仮説をぶちあげ、この仮説をベースに更に検証を重ねて1ミリずつ真実ににじり寄っていく。

従ってサイエンスの世界では、教科書といえども時が経てば書き換えられる。教科書はその時点で多くの人がもっともらしいと思っている仮説の集合に過ぎないからだ。ましてや論文なんて「それってあなた個人の仮説ですよね」という代物で、実際問題、世に出る論文の殆どは時間という篩にかけられて消えていく。

サイエンスのお作法として、学生たちはまず「論文は批判的に読む」という態度を躾けられる。百歩譲ってデータは正確だとしても、筆者の解釈は本当に正しいの? いやいや、私だったらこう考えるけどね、と。いわゆるクリティカルリーディングである。ところが教科書を信じ、そこに書かれていることをひたすら暗記することを10年以上繰り返してきた人間は、そう簡単に態度を改められない。
「だ〜か〜ら〜、筆者の肩を持たなくたっていいんだってば!」
と何度も何度も諭されて、ようやく批判的に読めるようになる。それほどまでに学校教育の呪いは強力だ。

翻って、二次試験対策の参考書に書かれていることがすべて仮説である以上、当然ながら私たちはそれを批判的に読む必要がある。どういう根拠に基づいて、どういうロジックでその仮説に至ったのかを、第三者の視点で検証しながら読まなければならない。そのことを頭で理解できるところがまずスタート地点。そして、学校教育の呪いを打ち破って、実際に批判的に読めるようになるのが次の段階だ。その先はもちろん、得た情報をもとに自分なりの仮説を磨くことになる。

その観点で、「ふぞろいシリーズ」には他の参考書にはないメリットが二つある。まずは仮説と共に、仮説の元になったデータが示されていること。そして、去年まで受験生だったという、自分に近い立場の人間が書いていること。このデータの存在と権威性の弱さのお陰で、批判的に読む練習にうってつけのテキストになっている。逆に、批判的に読めなければ「ふぞろい」の良さを本当に活かすことはできないし、二次試験の面白さを真に味わうこともできない。なぜ助言には効果も書くべきなのか、自分なりの仮説を作ってみることこそ、この試験の醍醐味なのだから。

……というのも単なる仮説なんですけどね(笑)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?