餓死レポ

 ゆえあって最近、悪の秘密結社に捕らえられた。水も食物も一切を口にすることなく四日間もがき苦しむ貴重な経験ができたので、忘れないうちに記録を残しておこうと思う。

・一日目
 とてもお腹が空く。ひっきりなしにお腹がきゅうきゅう鳴る。しかし私はこんな状況を想定して常日頃から1,2日程度の絶食トレーニングをこなしている。絶食のプロ、飢餓の絶傑である。一日何も食べず、何も飲まないくらいではちょっと体調が悪くなるくらいで大したことはない。お腹はきゅうきゅう鳴る。何か少しでも胃に物を入れてくれたらすぐ消化しますよ!と内臓が先走って胃酸を出し、それが胃にダメージを与えている。気分が悪い。大したことは無い。お腹はきゅうきゅう鳴る。

・二日目
 しばらく空腹感を無視し続けると、いつしか何も気にならないようになる。体が絶食状態に適応し、今あるエネルギーを温存しながら生存する体制へと移行するのだ。
 定期的なトレーニングによって餓死の危険を体に刻み込むことで、この状態への移行がスムーズに進むようになってきた気がする。実のところ一日目もしばらく経ったところで「あー、そういうやつね」と五臓六腑の理解を得て休眠体制が始まりつつあった。

 もう空腹感は気にならない。私は無敵だ。……と考えながら、しかし何故かグルメ系漫画の記憶ばかりが頭に浮かんでは消えていく。脳内で1日外出録ハンチョウが始まり、生きて帰れたなら何を食べたいか会議が起こる。そういえば私はブルガリア料理を食べたことが無い。悪の組織に捕らえられる経験をしておきながら、ブルガリア料理を食べたことが無い。人として何か間違っているのではないだろうか。いや、待て、衰弱状態では食べ慣れない料理は危険だ。落ち着いて消化に良いものを食べるべきではないか。うどん。うどん。いやどっちかっていうと蕎麦が食べたい。昔、高尾山で食べたとろろ蕎麦が食べたい。蕎麦はうどんと違って消化が良くないが、とろろが補ってくれるなら大丈夫ではないか。いやいや、ならばお腹に優しいとろろをお腹に優しいうどんといっしょに食べれば、優しさが二倍でバファリンだ。違う。半分が優しさで出来ているとろろ蕎麦こそがバファリンだ。

 などと考えながら、体の辛さは無く、むしろ頭が軽くなったような気持ち。思考がどんどん進み、時折自分でも驚くようなマイナー知識が掘り起こされる。気持ちがいい。そうだ、ブルガリア料理のミッシュマッシュはスクランブルエッグの一種のようなもの。しかしグーグルで画像検索すると、そういう名前の洋服ブランドばかりがヒットする。可愛い系の服のなかから隠れたブルガリア料理を探し当てたが、なんかそんなに美味しそうではなかった。そんな記憶を思い出せるくらいに私は冷静だ。ところで中国八大料理の一つである浙江料理は、見た目の鮮やかさを最大の特徴とするとか。記憶がスムーズに連鎖していく。私は食欲にはまったく惑わされていない。私は無敵だ。思考力の高まりを感じる。

・三日目
 手足の先に痺れを感じ始める。体が重い。内臓が重い。気を抜くと体の中身がこぼれ落ちてしまいそうなイメージに支配される。いつの間にか、触って分かるくらいに頬がこけている。
 とにかく体を動かすのがしんどいため、膝を抱えてじっとしたまま指先だけを動かして仕事をする。ときどき筋肉がぴくぴく動くが、痛みは無い。気にせずそのままじっとしている体勢を保つ。
 眠りと覚醒の合間に漂うような感覚。素晴らしいアイディアを思い付いたような気がして、目を覚ましてじっくり考えようとすると、その間に何を思いついたのか忘れている。そんなことを繰り返した。
 そういえば、この体験をnoteに投稿したらいいんじゃないかと思いついたのは、この三日目のことだったと思う。

・四日目
 四日以上の絶食は私も初めての体験である。そして初めての臨死体験でもあったと思う。

 四日目、目が覚めると、目が覚めなかった。まぶたの開け方が一瞬分からなくなっていた。混乱しながらなんとか目を開けるだけで、一生分のエネルギーを使い果たしたような気がした。
 生命活動のすべてがオート設定を切ってマニュアル操作に変わったような状態。自分の中で起きている全てに違和感がある。心臓が鼓動するたびに、どこかズレているような、致命的な感覚。血管を流れていく血が、そのときごとに部分部分で偏っている気がする。右腕が強く脈打ち、左腕がわずかに心もとない。このまま血が巡らなくなって腐り落ちるんじゃないかなんてことを、一秒ごとに全身のさまざまな箇所に感じる。
 何も口にしていないのに尿が出て、脱水状態特有のひどく濁った色の中に赤みが混じっていた。

 ヤバいとか辛いとかを通り越して、いきなり四日目にして「死にたい」「いっそ殺してくれ」という気持ちだった。

 心配した悪の組織の人が、焼き鳥を買ってきてくれた。しかし固形物を食べる体力なんて無かった。身振りでいらないと示して追い返してしまう。代わりに水が欲しいと伝えることすら億劫だった。
 何もできない。ただ生きているだけで辛い。死にたい。死にたい。死にたい。時間が吹っ飛んだような思いで夜を迎え、寒さに震え、死を覚悟した。

 今眠れば、もう次の日には目が覚めないかもしれない。そんなことを真剣に思った。この感覚を突き詰めていけたら何か価値ある決意につながりそうな予感があったが、疲れて辛くて深く考えられない。苦行では悟りに至れないのだろうか。もっと上手くやったら、死の淵から何かを持ち帰れないものだろうか。これほどの苦しみに価値がないなんてことがあるわけないのではないか。
 そんなことを思っているうちにどこか前向きに限界を探る気持ちになってきて「このまま眠り続けて死ぬのも悪くないな」「もし明日も生きていたら、生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えを考えてみたいな」とか殊勝な気持ちで目をつぶり、意識が消えるのを待った。





 しかし眠れないのである。まったく眠れないのである。わりと気持ちよく最後の夜を過ごしたと思っていたのに、全然眠れないのである。
 頭の中に光が灯っていて、死を受け入れることを拒んでいる。でももう体を動かすことすらできない。自分はもう限界なんだ。許してくれ五臓六腑。そんなにピクピクと主張するんじゃないよ太ももの筋肉。
 そういえば足の筋肉がガンガン消費されて生命力に緊急変換されている気がする。妙に足ばかり感覚が遠い気がする。そのくせピクピクと主張してきて安眠を妨害する。つい体勢を変えてしまった。布団の端を巻き込んで足をのせる体勢でなんだか気持ちが悪い。戻さなくては。

 なんて寝返りを打ちまくって、結局どんな姿勢でも気持ち悪さが残ることを認めてあきらめた時である。気づいてしまった。自分、意外と動ける。動けないような気がしていたが、全然動けるではないか。
 そう気づいてしまった時、自分に選択肢があることにも気づいてしまう。このまま苦しみ続けて眠るか、もしくは――。

 気が付くと私は、一心不乱に焼き鳥のタレを舐めていた。なんか雑で単調な味付けだと思いながら、同時にめちゃくちゃ美味しかった。トレーに溜まったタレを舐め終わると、ラップについたタレを舐め、それも終わると今度は焼き鳥をしゃぶった。
 本能的に、今は固形物を食べるのは無理だと思った。だから焼き鳥をしゃぶった。よだれを飲み込むことすら痛くて、水分が喉を通って体の内に入っていくのが気持ち悪くて、はっきりとした異物感に何度も吐き気を覚えながら、這い上がってくる酸すら無い。食事とすら言えない。最後の晩餐にして最悪だと脳が考える一方で、細胞の一つ一つが最高だと喝采を送る。焼き鳥、すごく美味しい。

・五日目
 焼き鳥をしゃぶりながら夜を越し、いつの間にか眠りこけていた私は、次の日には悪の組織が滅び、助け出されていたことを知った。
 焼き鳥をくれた悪の組織の人がどうなったのかは、私には分からない。記憶が曖昧過ぎて「焼き鳥」がネギまだったのかモモだったのか、はたまたもっとマイナーな何かだったのかすら分からない。

 それはそうと好きな焼き鳥は皮とレバである。あとハツとかも好きだ。生き延びられたのだから、今度はちゃんと焼き鳥が食べたい。ブルガリア料理とかどうでもいいので、焼き鳥が食べたい。

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