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理解できないこと

私が小学生の頃、「君に届け」が流行りました
中学生になったら、高校生になったら風早君みたいな人に出会えるのかな
そう思いました。

んーー。なんて言うんだろう。全女子の初恋?そんな存在ですかね?
どうしても、文章にしたくて
どうしても、忘れたくなくて

彼が見てきた景色はどんなものだったんだろうと
想像は絶対にできなくて
理解も一切できなくて
でも、彼の死に引き込まれそうで
引き込まれないためにも文章にしないと

9年前
私は小学校の卒業式を控えていたころに3.11がありました
「東北に縁もゆかりもない。土地が流されたなら引っ越せばいい。」
そう思ってました。
でも、当時の家や車や人が波に飲まれる映像が頭から離れなくて
同じように小学校の卒業式を控えてた子も亡くなって

「私なんかが生きていいのだろうか」

中学校に入り、友達が全然できなかった
ぼっちで修学旅行をした(今でも飲みの席でたまに出てくる黒歴史の1つ)
公立小学校から一人私立中学校へ進学して孤独につぶされそうだった
両親は弟にかかりきり。

「あれ?誰か私のこと見えてる?」
「今、私が消えたらどうだろうか?誰か気づくのかな?」
「いつ消えようか。私が消えたら出席番号が前にずれるのかな?それは先生がめんどくさいかな?」
「あ、毎日点呼される。この先生は私がいなくなったら気づくかな?」

そうやって延命してきた。

当時私がこの世から消えたらなんて言われたかな?
第一志望の中学校に受かったばかりだったのに、元気な子だったのに
学校に馴染めてきたと思ってたのに、どうして
かな?

当時、「死」というものが近くにあったせいで
すごく消えたかった。不満なんてない。私が生きてることが申し訳ない。ただそれだけ。なんで私は生きてるんだろう。だっていつかは皆死ぬんだもん


そんな私を変えたのは仏教の授業だった
突然先生が「隣の子に投げキッスしてごらん」と言った

ここでは、どうやら人類の歴史は長い。その中でこの年に日本に生まれ千葉県のこの女子校に通いこのクラスになり隣の席になるってすごいことではないのか?と伝えたかったらしい(ご縁を伝えたかったらしい)

「あ、確かに
どうせ私は消えても誰も気づかない。なら少し、少し遊んでいくか。」

そう思うようになった。
いつも控えめで消極的だった私は中3でアメリカでの10日間のホームステイへ参加した。
初海外で、なかなか思い切った決断だった。
アメリカはすごい
車も家も犬も何もかもが大きい。道路も大きい。
何よりも、月が大きかった。一直線に伸びる道路の真上に日本で見る月の何倍も大きい満月があった。走ったら掴めそうな月だった。
他にも信号がない。ご飯がまずい。ご飯の色がビビット。水やお茶に砂糖を入れる。

私が知らないもので溢れていた
あ、ここまで生きてきてよかったと思った瞬間だ

苦しいことはたくさんある
色んなことを経験しすぎて人よりも不器用に、強がることが上手くなってしまった
そんな私を救ってくれる人はいない
結局自分で自分の傷を手当するしかない
友達や何かのホットラインが処置できるような怪我じゃなくなってしまってきた
これが大人になるということかと噛みしめながら過ごしている

でも、ありがたいことに手術部屋や手当の道具を用意してくれる友人はいる
この人たちの手を借りながら、私はもう少し生きたいと思うのです

誰も私がいなくなったことに気づかなくていい
もっと知りたい

だから、まだ引き込まないで
もう少しこの世にいたい

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