やさしい愛の手のひらで 今日もわたしは歌おう~... もう迷わない~♪ 天使になった歌姫♡ (後編)
ロックグループ解散後(1989年)、本田美奈子は懐かしのメロディ系の番組で見かけるようになった。
そもそも実力があるからこそ、大御所と言われる演歌歌手や五輪真弓さんと対等に渡り合えた。
アイドル歌手としての旬を過ぎていた 本田はプロデューサーの高杉と、違うセールスの仕方を模索していたのだろう。
そんな1990年、東宝ミュージカル「ミス・サイゴン」の応募に挑戦してみませんか? の話が舞い込んで来た。
それは、演歌をソツなく唱いこなす本田の姿を観たミュージカル関係者からのお誘いであった。
乗り気でなかった美奈子だったが、常に新境地を求めて来た彼女にとっては、願ってもないチャンスだったのかも知れない。
1990年9月に応募し高い歌唱力と演技から、1万5000人の中から主人公のキム役を射止める。
これは海外でも通用するミュージカル女優の発掘でもあったため、東宝サイドも本気の選考であった。
選ばれた人たちは、舞台が始まるまで、歌やダンス、そして演技の専門の練習の場に通うようになる。
そこで待ち受けていたことは...
高い声が出ないじゃないか!
踊れないじゃないか!
たかがアイドル歌手にはムリなんだよ!
内から外から、美奈子は叩かれることになった。
ミュージカルについて知らなかった 本人の甘さもあったが、非情に厳しいものだった。
本田は、高杉社長に「1年間お仕事を休ませて下さい。 練習・勉強に専念します。」と、そう伝えたと言う。
そして1992年5月5日、『ミス・サイゴン』舞台の初日がやって来た。
見違える発声・歌唱と演技で観客を魅了した本田美奈子には、少しの不安もなかった。
東宝内外の舞台関係者が合格点以上の評価をしたのだった。
舞台装置に挟まれ足の指を骨折しながらも、演じきった日の逸話も残しながら、93年9月12日に閉幕。
1年半に渡る長き舞台を完遂した頃には、さらに歌唱が上達したミュージカル・スター本田美奈子になっていた。
「歌が好き」と言う、それだけが原動力なのに...
独特のセンスに磨かれたスキルは、持ち前のサービス精神が後押ししたのものなのだろうか...
本田美奈子は、ミュージカル女優の大スターの階段を昇って行く。
本田美奈子さんより歌唱技術の高いミュージカル俳優は世界には沢山いる? と思います。
けれども、心に響く聴かせる歌唱、気持ちを伝える演技のミュージカル俳優は、世界には数少ないでしょう。 いないかも知れません。
1999年12月11日の放送のサタスマ、本田美奈子さん企画
"サタ☆スマ 本田美奈子"
https://youtu.be/S4hGsOk3cI8
これっ...
お茶目な本田美奈子ちゃん「ダメだょ~!」と、中居くんとの掛け合い、何回みても笑ってしまう。
(中居くん、美奈子さんが応援してくれてるよ!)
"オリビアを聴きながら / 本田美奈子. (Olivia wo Kikinagara / Minako Honda.)"
https://youtu.be/yLufF-Lsqdc
2001年、「羽田健太郎のおしゃべりデュエット」より
"素晴らしき女の人生 本田美奈子(2005年8月20日放送)"
https://youtu.be/4viBpLPtgLA
この人を語る時、プロデューサーの高杉敬二さんを抜きにすることは出来ません。
彼女の善きアドバイザーに徹し続けたからこそ、本田美奈子がミュージカル女優の大スターに成れたのでしょう!
高杉敬二プロデューサー: サタ☆スマの動画に一瞬、映っています。
また、岩谷時子さん、井上鑑さん、岡野博行さんと言う素晴らしい共同作業者がいたことも忘れてはならない。
そして、身近に演じる俳優、舞台関係の方々にも。
毎年、沢山のアイドル歌手が生まれ、毎年、沢山のアイドル歌手が消えて行く。
可能性を秘めたアイドル、将来性を持ったアイドルも消えて行く歴史に、本田美奈子の存在が一際明るく輝く。
"本田美奈子 - アメイジング・グレイス"
(2004.10.14/六本木スウィートベイジル
2005年7月31日 本田美奈子、38才の誕生日
魂のこもった素敵な歌を ありがとう!
本田美奈子さん、きっと 貴女のことは忘れない!♡
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