【遅ればせながら…安倍元首相銃撃事件について】
ちょっと時間が経ってしまいましたが、私的ですが感情の日記的にも、
簡単にでもどこかに所感を書き残しておくべき事象かな、
と勝手ながら思いまして…
個人的には安倍さんという政治家が、長くあまり好きではなかった。
(政治家みたいな「おじさん」が嫌いなだけかもだが…)
バイアスによっているかもだが、偏執的な権威主義的性格と
稚拙で劣化した病的な自己愛が露骨に感じられる、
その言語・非言語問わないコミュニケーションや
本来求められるリーダー観からは乖離した一連の行動・言動に、
共感にも尊敬にも値しない、立場と肩書きだけが一人歩きしている
滑稽な大人像を感じてしまっていたからだろう。
ただ、「安倍晋三」という一個人としての生を想像した時、
純粋で希望に満ちていたかもしれない幼少期だったり、
彼なりの苦労や多少なりとも感じたかもしれない、
こんなはずではなかった人生観や潜在的で本質的な自己を前にして、誰とも共有することができない安倍さん固有の“生きづらさ”と長く共存してきたのではないか…
そんな“愛おしさ”にも似た絶対評価的想像力も同時に、
この事件が起きてしまったからこそ尚更、強く働いてしまうのだ。
そしてそれはいつも、
この事件のように原因や目的が、
マスな方々が分かり易く胸を撫で下ろせる
安直なストーリーには決して落とし込めない、
帰属処理し難い事件が起こる度に、
悪と猟奇の権化として晒される加害者に対しても…なのだ。
國分功一郎さんが
『中動態の世界:意思と責任の考古学』の中で語っていた、
“神的因果性”と“人間的因果性”の話を思い出す。
安倍さんも山上容疑者も、神的因果性に依って、
その人固有の寄る辺ない“生”を只々必死に生きた、
一つの生命体としての“個”ととらえた時、
現実世界では残念ながら辛く悲惨な現状に至ってしまった
それぞれの現生に対してはパラドックスのような、
現代の道徳性や倫理性からは自由で抽象化された、
在ったかもしれない全てがフラットなもう一つの世界の可能性を
思わずにはいられない。
その人が真にその人として、
他者と他者の間を「たゆたう」ように生き、
自然な存在として関係できたかもしれない奇跡のような可能性の断片を、このような事件が起きる度にいつも想像させられてしまうのだ。
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