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アートの民主化ってなんだろう?

アートの民主化という話を聞いたことがある。つい最近も日曜美術館でオラファー・エリアソンが自分の作品はアートを民主化するためにあり、自分の作品によって対話が生まれることを目指していると語っていた。これは今まで政治とか色々な問題について議論することで合意形成を図ってきた欧米の文脈では理解できる。しかし日本で同じことをやって議論することが起こるだろうか?オラファー・エリアソンの作品は、それなりに費用をかけていて、観客数も多いが、日本でこれに相当するのは、ある程度メジャーな芸術祭か、森美術館のような規模の美術館の展示かもしれない。只、これらの芸術祭や森美術館の展示はインスタを賑わしはするが議論を促しているだろうか。

民主化というからには、今、日本でアートが充分、民主化されていないという前提で話を進めるが(アートはそもそも民主化されるべきなのかというののもあるが)、そもそも民主化の条件として、各個人が自分の基準で判断でき、意見を語れるということがあると思う。日本人の場合、江戸時代の徳川政権の統治が良かったため、お上にまかせていれば安心という気質になったとも言われるが、兎に角、誰かの判断・評価に従うというのが習い性となったようだ。

アートがオラファー・エリアソンの作品のように良い問いをあたえてくれること、それによって人々の間に議論が発生すること、この2点を民主化の条件と仮にしてみよう。どういう風に問いを作品から発せられるようにするかというのはアーティスト側の力量であり、オラファー・エリアソンのような作家はそうはいないが、現代は課題は見渡せばそこらじゅうにあるので、問いをみつけること自体のは難しいことではないだろう。むしろ日本で難しいのはどうやってまともな議論をできるようにするかということにあると思う。twitterを見ればわかるように議論するためには、立場は違えど共有できる価値観(倫理観)が必要と思うのだ。

この日本の現状を批評家の東浩紀は、日本人が考えることをしなくなったためだと指摘している。

共通の価値観を持つことは、議論のベースになり、議論するためには考えないといけないと思うと、共通の価値観のようなものは何だろうという問いかけをしてくれるアートこそが今はまず必要な気がする。ここでは、例として2人の若い作家を採りあげたい。1人は八太栄里で、彼女は大阪の中津や和歌山の九度山町などの風景を作品のベースにしているが、いつも見ている場所を何故か懐かしいと感じる作品にしている。この何か懐かしいという感覚をもたらすものこそ、自分たちの住んでいる場所の良さを見直す契機となり守るべき日常とは何か?を考えるきっかけになるのではと思うのだ。

この感覚については、言語において方言がもたらす懐かしさについて書いたことと共通する感覚ではないかと思う。

もう1人の作家は、filmyankeeことmanimanium だが、彼女の場合は、大阪の街で身近な人を写真に撮っているが、どこかで見かけたような大阪の街をバックにした人物の表情や仕草が相まって、特別な場所感が感じられる。この特別な場所感も、その場所を大事に思う価値観を生むきっかけになるのではと思うのだ。そういう感覚を共有することで、まず今いる場所を肯定しあう。そこから、でもここは直した方がいいよね、これは変えちゃダメだよねという話ができるんではないだろうか。

上に挙げた2人以外にも、それぞれの場所で素敵なアーティストを見つけて、今いる場所、今生きている時の価値を再確認する。そこからアートの民主化の一歩が本当に始まる気がするのだ。



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