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夢を追うことと諦めること

映画『辻占恋慕』を観た。たまたまライブハウスで出会った月見ゆべしの才能を知り、自分のミュージシャンとしてのキャリアをあきらめ、ゆべしのマネージャーになる信太。2人で月見ゆべしの夢を追いかけるが、やがて2人の間に亀裂が生まれ、信太はゆべしのライブの会場で印象的な行動に出る。

何故、夢を終わらせたのか?

信太はなぜあそこまで極端な行動に走ったのか(ゆべしを気絶させ、来ていた観客を追い返す)ことの説明がこの映画の1つの肝になっているように思う。少し前に信太は、かつての恋人に詰問される「彼女を愛しているのか、彼女の才能を愛しているのか、彼女を支える自分を愛しているのか」と。信太は問いに答えないんだけれど、私からみれば答えははっきりしている。「そんなの全部に決まってるじゃないか、才能のある彼女が好きだし、その才能を持っている彼女を愛しているし、そんな才能をわかっている自分も好きなんだ」ということだ。

だから信太は、ライブの直前にゆべしの友人から、もうゆべしは今の夢を追い続ける状況が限界なんだということを知らされた時、自分もゆべしもぶっ壊して終わりにしようと思ったんだろう。そうしなければ自分はいつまでも夢を追い続け、ゆべしを苦しめてしまうから。徹底的に終わりにしたい、それは信太のエゴかもしれないけど。

夢は何故同じじゃなくなるのか?

ゆべしと信太は、月見ゆべしをプロモートする際に、意見が食い違い、それが結局信太の爆発に繋がるんだけど、2人は本当に夢の共有ができていたんだろうかということは疑問として残る。あくまで個人的な妄想だけど、信太は月見ゆべしを大規模な会場を満員にしたり、CDがガンガン売れるようなアーティストにしたかったが、ゆべしの方は、100人規模のライブハウスを巡りながら、少数のファンの心に残る時間を提供していくような姿を望んでいたんではないだろうか。喧嘩のシーンが多くて、お互いの成功の姿を語りあったりするシーンがないのでその点が良くわからないのだ。

信太はゆべしのサポート役なわけで、ある意味コーチのような役割をしないといけないんだけど、その際にはコーチングの基本として、アーティストと夢の共有をちゃんとやって、そこからどうやってそこに至るかをステップ毎に話し合って進まないといけないはずなのに、何だか、あっちこっちと場当たり的に進めているように見えてしまうのだ。もちろん、コーチングしながら話し合っても成功するとは限らないけど、少なくともどこでダメだったかがお互いわかることはできたんじゃないだろうか。そうなればあんな激しい終わらせ方をする必要もなかっただろう。(それだと映画としてつまらないかもしれないが。)

アーティストをサポートするということ

現代美術家の会田誠は、以前のtweetで、「芸術家のサポートは電動アシストのようなものでなくてはならない」というようなことを言っていた。いろんな意味に取れるかもしれないが、アーティストがあくまで自力で前に進もうとしない限り、アシストは機能しないが、進もうという時には気づかないように力を与えているような感じのサポートが良いということと理解した。

アーティストは人間なので、自力でこぐ力が弱まる時、あるいは急な坂にぶち当たるような時には、思いっきりアシストが必要だし、快調に進んでいる時はほとんどアシストしなくても大丈夫かもしれない。その状況をちゃんと把握してサポートできないとマネージャーとしては失格なのかもしれない。

そういう意味では、信太はゆべしを十分に観ていないように感じた。もっともいきなりマネージャーになった信太に過分に求めすぎているのかもしれない。でもアーティストのサポートって繊細で疲れるもので、そして必ずしも報われるものでもないということをわかってほしいなと信太には伝えたい。


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