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アートと社会のあいだ

国谷裕子さんが東京藝大の先生12名にインタビューしたものを纏めた『クローズアップ藝大』を読みました。12人、それぞれに面白い話がありましたが、特に山村浩二さん、小沢剛さん、高木綾子さんの3人の話に興味を惹かれたので、どこに惹かれたんだろうということを考えてみたいと思います。

芸術作品が伝えるものと鑑賞者の役割

山村浩二さんの話の中で、一番納得したのが以下の部分です。

「社会に起こっていることは、わからないことだらけですよね。なので、僕らのような芸術分野を扱っている者が、人間が言葉や論理で理解できない部分、中間的な部分を担っていくのかなと思っています。」

山村浩二さんは、主に短編アニメーションを作られる作家ですが、「メッセージを伝えるのでなく、さまざまな要素が絡み合った複雑なものを提示して、そこからそれぞれの人が何かを読み取れるものを作りたいと思っています。」と語っています。

言い換えると、アート作品とは、アーティストが社会のよくわからないことを抽象的に理解して、作品として昇華し、観客に解釈を委ねているものとも言えます。そして優れた作品であればあるほど、抽象度が高く、解釈もより開かれたものになっていると思います。そうであれば、観る側の役割が結構大きいなと思ったのです。

現代アートはわかりにくいというのはよく言われることですが、そもそも現代アーティストの方が同じ時代を生きているのですから、むしろ200年とか300年前の作家よりもよくわかるはずではないでしょうか?理解できないということは、その事に対して関心を寄せていなかったというだけで、それに気づけば自分の関心範囲が拡がっていくきっかけとなると思うのです。そうはいっても、今まで関心がなかった事でも、どういうことにより興味を惹かれるか否かはあるかと思うので、より惹かれる作品から関心の範囲を拡げるのがよいでしょう。それをどう見つけるかについては、以前のnoteに書きました。

先端な芸術表現を追求することの難しさ

次に小沢剛さんですが、国谷さんから「芸術はそもそもみな先端をいくものと思っていたのですが」と尋ねられ、以下のように答えます。

先端芸術表現は、「変化していく社会や時代を敏感に感じ取り、ジャンルに囚われることなく誰も作ったことのないものを作る」ことじゃないかと語り、「きっと美術史に名を残している巨匠たちは、みんな先端だったんじゃないですか」と答える一方で、「常に誰かが切り開いたものをちょっと深めて、無理に新しさにこだわらない態度の作家のほうがむしろ多いじゃないかと思いますね。」とも語ります。

こういう新しい表現を切り開いていく人が、どうすればうまく生き残っていけるのかというのは課題ではありますね。観る側にとっても果たしてそれを理解できるのかということが課題です。観る側がどれだけ新しいものに対して開かれているかということを試されているとも言えます。

これは、企業においてイノベーションがなかなか起こりにくいというのと同じで、日本人は廻りの評価を気にしていて、新しいことに踏み出すことには相当なエネルギーが必要になると思うのです。企業のイノベーションと違うのは、アーティストは個人で進められるので、自分の心が折れなければ、新しいものにチャレンジすることができるのです。それでも廻りに少しでも理解者がいることが支えになるでしょう。それは同じアーティストであっても、鑑賞者であってもいいのではないでしょうか。

何が言いたいのかというと、イノベーターであれば、新しい表現を切り開いているタイプのアーティストは、似ていてどちらも理解者が必要なんだということです。

言葉で音楽を伝えるということ

次に高木綾子さんの話では、言葉にすることに拘っているという話が印象に残っています。

「例えば、一つの曲を物語に書き換える。曲とは全然関係なくていいんです。ここは誰と誰の出会いの場面とか、ここはどっちかが怒っていてどっちかが泣いている悲しい場面とか、自分が簡単に思い浮かべやすい物語にして書き留める。」

これが印象に残ったのは、日本の芸術大学では、実技優先で、兎に角、”手を動かせ”という指導が多いと思っていたので(これは私の誤解かもしれませんが)、言語化することでより深く認識できると語っていたことです。芸術表現というのは抽象度が高いものなので、言語化するのは難しいと思っていたのですが、言語化して一旦自分の演奏を客観的に見れるようにして、再度演奏により抽象化するというのを繰り返すことで演奏のレベルアップを図っているのかなと思いました。

ここで思ったのが、鑑賞者の側も演奏を聴いたり、絵画を観たりしたことを一旦言葉で表現しておくことで、別の体験した場合、より深い体験となるのではないかと言うことです。もちろん、鑑賞者とアーティストではその言語化は違うものになるだろうとは思います。高木さんの話を読みながら、鑑賞者側もしっかり言語化しておくことが、より楽しむために大事なんだろうなと思いました。

アートとSDGsの間にあるもの

国谷裕子さんは、SDGsの啓蒙活動をされているわけですが、以下の言葉に同意するものの、そのためには鑑賞者側の教育というか、啓蒙が相当必要なのではと思いました。

「芸術の力は、即効性があるものではないかもしれません。しかし、作品に触れたことによって行動を変えたり、発想を変えたりする人々の強い思いが自然と積み重なって、いつしか世界を変える日がくるかもしれません、とおもわずにいられません。」

要するに、単に芸術に触れるだけでなく、それに触れることで、行動や発想を変えられる存在になるための準備としての啓蒙が必要なんだと思いました。只、それは何かを勉強しないといけないというのでなく、気に入ったものから楽しく進めていかないといけないなあとも思いました。


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