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美や芸術は如何にして更新されるのか

Podcastで聴いている『超相対性理論』、「美について」の回の後編を聴いたので、前回の中編を聴いた後、考えたことも含めて少し纏めてみたい。

後編の話は、最後に個人が問いかけた新しい美意識が、社会の美意識として受け入れられ逆転するということが起こるという結論になっていたが、中編で取り上げられていた美と芸術の区別がどこかにいってしまったようで、語られているのが美についてなのか、芸術についてなのかよくわからないが、個人的には芸術についての事なのかなと思って聴いていた。

美と芸術は如何にして更新されるのか

前回の中編を聴いた後に、絶対的な美と相対的な美ということを考えたが、今回の後編を聴いて、美と芸術がどう更新されるのかについて考えてみた。

美については、前回考えたようにDNA、もしくはエピジェネテックなものとして人類共通の感覚、意識のようなものがあるだろう。その上に各民族毎の美的感覚が文化として培われ、それが長く続けば、ミームのようなものとして民族に刻み込まれるかもしれない。上に図で描いてみたがそれぞれのレイヤーははっきり分けられるものではない。

一方で、芸術については、各民族がそれぞれ生み出していく中で、文化として受け容れられ、その中でとても民族として馴染むものがあれば、ミームのようなものとして時代を通じて好まれるものとなり、あるいは単に時代ごとに流行のような形として受け容れられるものもあるだろう。そして、現代アートによくあるように誰かが新しい試みをして、それを社会に問うことによって民族全体に受け容れられ、文化として定着することもあるだろう。

こう考えると、『超相対性理論』の中で、渡邉康太郎さんが語っていた美が強い文脈と弱い文脈で入れ替わるという話は、美についてではなく、芸術について当てはまるように思う。芸術であるものが、美でもある場合もあり、そうでない場合もあるが、美についてもより経験の範囲が広くなるにつれ拡張されたりもする、それは芸術によってもたらされる場合もあり、そうでない場合もある。つまり時代を経る上で美も芸術もその範囲を拡張してきたと言える。ただ、美の方がより範囲が広いようにも思う。美は入れ替わるというよりもどんどん範囲の拡がっているという感じだろうか。芸術の場合、一時期だけみれば、ある流れがその時代の流れを支配するようなこともあるように思える。それは芸術が共有される範囲、民族が狭かったということもあると思う。

美意識を鍛えるとは

『超相対性理論』の中では、美意識は筋肉のようなもので、それがもともと沢山ある人とそうでない人、そしてそれは鍛えられるという面白い例えがあった。それで思い出したのが先日雑誌の対談で、脳科学者の中野信子さんが、人には絶対美感がある人がいるという話だ。そういうものがあるとしたら、それがない人にとっては鍛えてもたどり着けないところがあるのかもしれない。もう一点、美ではない芸術は、絶対美感があっても理解できないかもしれない。

それでも圧倒的に経験をすることで、美についても芸術についても理解できる範囲を拡げることはできるし、そうであれば鍛えられるものであるが、ミームとして民族に深く刻まれたものが大きい場合は、その民族を超えた場合、鍛えても理解できないものもあるかもしれない。全てを理解したいという欲望があるとしても、鍛えるのにも限界がありそうではある。

しかし、『超相対性理論』でも語られていたように、美や芸術について語ると言葉の端から漏れていくものがあるような気がするのはとても同意する。

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