見出し画像

パッツィー・クライン全キャリア解説 (カントリーを語る上で避けては通れれない人物)


パッツィー・クラインの名前は、カントリーミュージックの歴史に燦然と輝く存在です。独特の声と感情豊かな歌唱スタイルは、ジャンルを超えて多くの人々に愛されています。クラインの音楽は、カントリーミュージックに革新をもたらし、今もなお多くのアーティストやリスナーに影響を与え続けています。本記事では、パッツィー・クラインの生涯とその遺産について詳しく探り、彼女がどのように音楽史に名を刻んだのかを紹介します。

幼少期
パッツィー・クラインは、1932年9月8日にバージニア州ウィンチェスターでヴァージニア・パターソン・ヘンズリーとして生まれました。彼女は労働者階級の家庭に育ち、幼少期には経済的な困難が絶えませんでした。父親、サミュエル・ヘンズリーは鍛冶職人で、家族を支えるために多くの時間を働いていました。母親のホッタ・ヘンズリーは音楽に関する深い愛情を持っていました。


ウィンチェスターの観光名所

幼少期のクラインは、母親のピアノ演奏を聴きながら成長しました。母親はゴスペルやカントリー音楽をよく演奏し、家族全員が一緒に歌うことが日常的でした。クラインは非常に早い段階で音楽への強い興味を示し、わずか4歳で教会の聖歌隊に参加しました。彼女の声はすでに際立っていたそうです。

初期の音楽経験
パッツィー・クラインの音楽キャリアは10代の頃に本格化しました。16歳の時、彼女は地元のラジオ局WINCで初めて公の場で歌い、その才能が広く認知されるようになりました。このラジオ出演をきっかけに、彼女は地元のイベントやダンスホールで定期的にパフォーマンスを行うようになりました。

クラインの初期の音楽経験は音楽的スタイルを形成する上で重要な役割を果たしました。彼女はカントリーミュージックだけでなく、ジャズやポップスにも触れ、これらの要素を融合させた独自のスタイルを築きました。彼女の歌唱スタイルは、エモーショナルで力強いのが特徴です。

パッツィー・クラインのキャリアは決してすんなりうまくはいきませんでした。多くのオーディションを受け、数々のレコーディング契約を試みましたが、初期の成功は限られたものでした。しかし、1955年にフォー・スター・レコードと契約したことが転機となりました。この契約により、最初のシングル「A Church, A Courtroom, and Then Goodbye」をリリースし、徐々にその名を広めるようになりました。

1957年、パッツィー・クラインは「WALKIN' AFTER MIDNIGHT」をリリースし、これが初の大ヒット曲となりました。そしてこの曲によって全米の注目を集めました。そのためテレビ番組「アーサー・ゴッドフリー・ショー」に出演することも果たしました。

あるインタビューでは、「私の声は、13歳の時にかかった喉の感染症とリウマチ熱のおかげでできた」と冗談交じりに語っています。

それでもパッツィー・クラインの人生自体は順風満帆ではありませんでした。最初の夫であるジェラルド・クラインとの結婚生活も幸せなものでく、ジェラルドはクラインの成功に嫉妬し、伝統的な主婦であることを期待していたため、二人は1957年に離婚することになります。

その後、パッツィー・クラインは地元の新聞のリノタイプオペレーターであるチャールズ・アレン・ディックと出会い、1957年9月15日に結婚しました。二人は一女一男をもうけましたが、ディックが軍務に就いている間、クラインは再び地域のパフォーマーとしての生活に戻り、苦しい生活を続けましました。


1959年、ディックが軍務から戻った後、二人はナッシュビルに移り住み、クラインは新たなマネージャーであるランディ・ヒューズと共にキャリアを再構築しました。1960年、彼女はグランド・オール・オープリーのレギュラーキャストメンバーとして加入し、カントリーミュージックシーンでの地位を確立しました。

1961年には「I Fall to Pieces」がリリースされ、カントリーチャートで1位、ポップチャートで12位にランクインする大ヒットとなりました。


この成功を皮切りに、クラインは次々とヒット曲を生み出し、特にウィリー・ネルソンが作曲した「Crazy」はクラインの代表曲となりました。この「Crazy」にはちょっと特殊な背景があるのでそれも紹介します。


交通事故

1961年6月14日、パッツィー・クラインはナッシュビルで重大な交通事故に遭遇しました。当時29歳のクラインは、彼女の兄サムと一緒に車に乗っている時に正面衝突事故に巻き込まれ、フロントガラスに投げ出されるほどの衝撃を受けたそうです。

クラインはこの事故で顔に深い傷を負い、手首を骨折し、腰を脱臼するほどでした。これらの怪我により彼女は1ヶ月間入院し、その後も痛みと戦いながらリハビリに励みました。そしてわずか6週間後にはグランド・オール・オープリーの舞台に立ち、まだ松葉杖を使用している状態でパフォーマンスを行いました。

その後、彼女はスタジオに戻り、ウィリー・ネルソン作の「Crazy」を録音しました。この曲の録音は、クラインにとって非常に困難なものでした。最初の4時間のセッションでは満足のいくボーカルテイクを得られず、再度スタジオに戻ってオーバーダビングを行う必要がありました。



その事故に会ってから数か月して、パッツィー・クラインの最高傑作のアルバム『Patsy Cline Showcase』が1961年11月27日にデッカ・レコードからリリースされました。アルバム制作は1960年11月16日にナッシュビルのブラッドリー・フィルム&レコーディングスタジオで始まりました。プロデューサーのオーウェン・ブラッドリーと共に、クラインはナッシュビル・サウンドを取り入れた洗練されたアルバムを作り上げました​。オーウェン・ブラッドリーのプロデュースにより、クラインの歌声を引き立てるために精緻なアレンジが施されたアルバムが仕上がりました。


ナッシュビル・サウンドとは?
ナッシュビル・サウンドは、1950年代中期にアメリカのカントリーミュージックのサブジャンルとして発展しました。このスタイルは、当時主流だった粗野なホンキートンクミュージックからの転換を図り、「スムーズなストリングスとコーラス」「洗練されたバックグラウンドボーカル」、そして「スムーズなテンポ」を特徴とするものでした。ナッシュビル・サウンドの主な目的は、ロックンロールの台頭によって打撃を受けたカントリーミュージックの売上を回復させることでした​。

ナッシュビル・サウンドは、カントリーミュージックの歴史において重要な転換点となり、その後のカントリーポップやカントリーポリタンのスタイルにも影響を与えました。このスタイルは、エルヴィス・プレスリーやエディ・アーノルドなどのアーティストによっても採用され、広く支持されました​。

このアルバムの影響
このアルバムはビルボードのモノラルLPチャートで144位にランクインしました。これは低い順位に見えるかもしれませんが、当時の状況を考慮するとそれは仕方のないことです。ビルボードのカントリーアルバムチャートは1964年から始まりましたが、1961年にはまだ存在していませんでした。そのため、アルバムが総合アルバムチャートにランクインするのは非常に難しかったのです。

それでもクラインの死後、このアルバムは新しいカバーアートで再発され、再び注目を集めることになりました。この再発により、アルバムは多くの新しいファンを獲得し、現在もなおカントリーミュージックの名盤として高く評価されています。

このアルバムはパッツィー・クラインの音楽キャリアやナッシュビル・サウンドの確立、そして長期的な文化的影響を考慮すると非常に重要です。例えば、ロレッタ・リン、リンダ・ロンシュタット、k.d.ラングなど、多くのアーティストがクラインの影響を受けていると公言しています。

そしてパッツィー・クラインはキャリアのこのアルバムがリリースされた絶頂期においても謙虚で親しみやすい性格を保ち、多くの人々に愛され続けました​。



晩年の活動と悲劇的な最期

1962年から1963年にかけて、パッツィー・クラインは数々のヒット曲を生み出しました。代表的な楽曲として「She's Got You」、「When I Get Through with You」、「So Wrong」、「Leavin' on Your Mind」があります。「She's Got You」は1962年1月にリリースされ、ビルボードのカントリーチャートで1位、ポップチャートで14位、アダルトコンテンポラリーチャートで3位にランクインしました​。


パッツィー・クラインはまた、カーネギーホールやハリウッドボウル、ラスベガスのミントカジノなどの著名な会場でもパフォーマンスを行いました。特にカーネギーホールでの公演は非常に評価が高く、ニューヨーク・タイムズの評論家ロバート・シェルトンも彼女の「心を揺さぶる歌唱力」を絶賛しました​ 。さらに、ジョニー・キャッシュと共にツアーを行い、カントリーミュージック界での地位を確立しました​。


1963年3月5日の悲劇
1963年3月5日、クラインはカンザスシティでの慈善コンサートからナッシュビルへの帰途、小型飛行機に搭乗しました。この飛行機には彼女のマネージャーでありパイロットでもあるランディ・ヒューズ、そしてカントリーミュージックのスターであるカウボーイ・コーパスとホークショー・ホーキンスが同乗していました。コンサートはDJジャック・キャラスの家族のための慈善イベントであり、クラインはこのイベントで「She’s Got You」、「Sweet Dreams」、「Crazy」、「I Fall to Pieces」などのヒット曲を披露しました​ ​。

その後、彼女はナッシュビルに戻るために飛行機に搭乗しましたが、天候が悪かったため、出発が遅れました。友人のドッティ・ウェストは、車でナッシュビルに戻ることを提案しましたが、クラインは「心配しないで、大丈夫」と言い、飛行機で帰ることを選びました。

飛行機はカンザスシティのフェアファックス・ミュニシパル空港を午後2時に離陸し、テネシー州ダイヤーズバーグで給油のために一度着陸しました。そこで天候が悪いため飛行を中止するよう警告されましたが、パイロットのヒューズは「ここまで来たからには続ける」と言い、飛行を続行しました​。

午後6時29分、飛行機はテネシー州カムデン近くで墜落しました。墜落の原因はパイロットの経験不足と悪天候によるもので、全員が即死しました。クラインは30歳でその生涯を閉じました。



パッツィー・クラインの死後、彼女の音楽は多くの新しいファンを獲得し続け、1973年にはカントリーミュージック殿堂入りを果たしました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?