見出し画像

少女に気軽な一人旅が届くまで問題6

前回、降伏文書に調印されて日本がGHQ占領下になったところで終わりましたが、その話に入る前に旅客機関係の話を挟みたいと思います。

日本で初めて民間定期航空路が開通したのは1922(大正11)年、日本航空輸送研究所が開設した堺──高松線です。堺市の大浜水上飛行場として小松島、高松──松山、大分、白浜などへ向かう路線があったそうです。
日本で一番早く提供された「民間人の乗れる旅客機サービス」です。

1923(大正12)年、朝日新聞社が設立した東西定期航空会が発足。当初は郵便業務のみでしたが、1928(昭和3)年、立川飛行場と大阪市の城東練兵場の間で定期旅客輸送を開始します。初めて東京から利用できる旅客機が登場したことになります。

1928(昭和3)年、日本航空輸送研究所、東西定期航空会、水上機で郵便郵送を行っていた日本航空株式会社(現在のJALとは無関係の別会社です)を官民合同の日本航空輸送株式会社に吸収合併されることになりました。(この時、日本航空輸送研究所は合流を拒否したので、短距離路線のみ運航を継続しました)

そして客室乗務員が搭乗してサービスをする旅客機が搭乗します。1931(昭和6)年に東京航空輸送会社が設立した、水上機による東京──下田間の定期便です。エア・ガールと呼ばれた乗務員が軽食や紅茶を提供したようです。一年ほどでそのサービスは終了しましたが、1937(昭和12)年、上記の日本航空輸送株式会社が客室乗務員を搭乗させた時には、10人の募集に2000人が応募する大人気となりました。

ちょうど同年に朝日新聞社の神風号が東京──ロンドン間を実飛行時間で51時間、全所要時間(休憩、燃料補給などを含む)では94時間で飛び、 都市連絡飛行の国際記録を樹立したことで飛行機ブームが起こっていたのです。エア・ガールになりたい女性が殺到したのは想像に難くありません。

他にも1931(昭和6)年、城崎の日本海航空株式会社が遊覧飛行を行うようになり、その後大阪、松江への定期便の運行も開始しました。

民間の旅客機はまだまだ高額ながらもニーズが広まっていきましたが、1938(昭和13)年に設立された国営の大日本航空に、日本航空輸送、国際航空が合流します。鉄道でも陸上交通事業調整法が施行されてあれこれ合併したりしているタイミングです。航空事業もそうだったのでしょう。
1939(昭和14)年、国際航空輸送事業は大日本航空株式会社に独占させることになり、民間の航空会社は国内路線のみになります。

そして1945(昭和20)年、ポツダム宣言の受諾によってGHQが日本国籍の航空機の飛行を全面禁止、大日本航空も解散します。航空だけでなく重工業関係が軒並みつぶされる状態です。

──という訳で、占領下の日本の話を始められます。

まずGHQについての大変ざっくりとした説明をします。
GHQというのは連合国軍最高司令官総司令部、『General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers』です。太字の箇所を取ってGHQと略している訳ですね。進駐軍とも呼ばれています。
アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド、インド、フィリピンの連合軍ですが、実質的には多くを派兵しているアメリカ、イギリスの発言力が強い軍です。中国・四国地方はイギリス連邦占領軍、それ以外の都道府県はアメリカ占領軍の担当エリアです。
1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が調印されて解散するまでの期間、日本はこのGHQが占領しています。約七年間です。その間は独立国ではありません。

もちろんこのGHQについてをきっちり書いていくと本題に戻らないので、交通関係の話題に絞って進めます。ちゃんとした情報が知りたい方は大量に本が出ているのでいろいろ調べてみてください。

その独立国ではない間に、日本の公共交通機関はどうなったのか。こちらが本題です。前述のように日本の航空会社は解体されています。鉄道はどうなっているでしょうか。こちらはさすがに解体された訳ではありません。ただでさえ戦後で大変な状況下なのにインフラが破綻してしまいます。

鉄道は国有鉄道も私鉄も戦時中にかなり合併して巨大になっています。前回お読みいただけた方は大東急や近畿日本鉄道、戦時買収私鉄のことを憶えていらっしゃると思います。国有鉄道も私鉄もちゃんと残っています。戦中はいろいろ制限されていた食べ物、物資に事欠く人々が鉄道を利用するのでむしろめちゃくちゃ走りまくっています。

戦時中に不自然なくらい大きく合併した日本の私鉄も少しずつ分裂していきます。
1947(昭和22)年、近畿日本鉄道と合併していた南海鉄道を、かなり離れ業的な方法で分離します。戦時中に合併せずに残っていた高野山電気鉄道が南海電気鉄道と改称、そこに旧南海鉄道の路線を譲渡するという形で南海鉄道は独立しました。
その翌年、1948(昭和23)年、大東急から京急、小田急、京王の三社が分離します。

「じゃ、戦前と列車はあんまり変わらない?」とお思いの方もいるかもしれませんが、あからさまに違っている部分があります。

GHQ第3鉄道輸送司令部 (MRS) の下に、地区司令部 (DTO) 、そしてその下に鉄道司令部 (RTO) があり、RTOからあれこれ指令が届く形になっています。
大規模に貨物や人間を運ぶ必要があるのは日本人だけではなくGHQもそうです。彼らが使うための専用列車が国有鉄道、私鉄で用意されることになりました。アルファベットで名前の書かれた列車が日本を走っていた訳です。列車のうち状態のいいものを接収し、改造して使っていたのでかなりゴージャスです。

主な専用列車はこんな感じです。
Allied Limited(当初は東京──門司間。最終的には佐世保まで延長)
Dixie Limited(東京──博多間。当初は山陽本線ルートだったが後に呉線経由に)
Yankee Limited(北海道へ向かう列車。上野──青森間、青函連絡船、函館──札幌間。後に横浜発着)
Rest Camptrain(東京──京都間。上野──田口間。休暇軍人用)
Osaka Express(東京──大阪間)
BCOF train(東京──呉間。主にイギリス連邦占領軍が使用)

ただしずっと占領下に置くというのではなく、日本が復興してきて徐々にこの連合軍専用列車は減っていきます。

1947(昭和22)年、東京──京都間のRest Camptrainが廃止されたのを皮切りに、Osaka Expressの運転縮小。呉──別府間に、下り月曜日・上り火曜日発でBCOF train運行。
1948(昭和23)年、Osaka Express廃止。イギリス連邦占領軍の多くが帰国したことを受け、京都──呉間運転のBCOF train廃止。
1949(昭和24)年、東京──呉間運転のBCOF trainも廃止。呉──別府間のみに。
1950(昭和25)年、BCOF train廃止。この後は日本人用の列車に連結する形に縮小。

ただしアメリカ占領軍は当初は東京──門司間の運行だったAllied Limitedを1946(昭和21)年に小倉、1949(昭和24)年に博多、1951(昭和26)年に佐世保まで延長しています。
その後9月8日サンフランシスコ講和条約が調印されます。もうすぐ独立です。RTOも廃止され、専用列車の一部も日本人に開放され、乗れるようになります。

もちろん航空についても開放されました。それまで占領下日本の空港は海外の海外民間航空しか乗り入れを許可されていませんでしたが、1950(昭和25)年、日本の航空会社による運航禁止期間が解除され、1951年1月、GHQが日本民間航空機のフライトを認めました。8月に日本航空株式会社が設立されます。(ただ、当時の羽田空港はほとんどが米軍の軍用機が使用していて、海外、国内を合わせても民間機は5%くらいしかありませんでした)

1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して、晴れて独立国に戻りました。ただし、現時点での日本の全ての領土が戻ってきた訳ではありません。

まず外地と呼ばれた全ての地域、台湾、朝鮮、関東州、南洋群島は日本領ではなくなりました。内地と呼ばれていた地域のうち南樺太も日本領ではなくなりました。「1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。満洲、台湾、澎湖列島。朝鮮及び樺太」はもう外国です。
そしてGHQが日本の範囲として定義したのが「日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼」です。
それ以外の「北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島」は日本の主権が放棄されていない状態でアメリカの施政権の下に置かれました。

そのうち終戦間もなく1946(昭和21)年3月22日、伊豆諸島が復帰します。1952(昭和27)年2月10日、トカラ列島が復帰します。このふたつの地域はサンフランシスコ講和条約発効前の復帰です。

講和条約発効後は、1953(昭和28)年12月25日に奄美群島が復帰します。1968(昭和43)年6月26日、小笠原諸島が復帰します。1972(昭和47)年5月15日、沖縄県が復帰します。発効後間もなく復帰した奄美群島以外はかなり時間が経ってからの復帰ですが、流れを把握しやすいようにここに書きました。

次回は独立を取り戻し、復興した日本で人気となった修学旅行列車、新婚列車などの話題の予定です……見落としがなければ。



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

館山の物語を気に入ってくださった方、投げ銭的な風情でサポートすることができます。よろしかったらお願いします。