’22,7,18号音粋ヒストリアvol.2-「村井邦彦インタビューEp.1」

月曜9の音粋「音粋ヒストリア」‘22,7,18号:村井邦彦インタビュー
大阪にも吹き荒れたYMO旋風に直撃されたDJとその10数年後にYMOのCDを手に取ったDJ2人の音楽トーク番組。bayfm9の音粋(#キュウオン)月曜日。2022,7,18「音粋ヒストリアvol.2村井邦彦インタビュー」タイムフリーが終わる前に是非お聞き下さい!
DJはスージー鈴木(スー)ミラッキ大村(ミ)
スー)マリンスタジアムからやって来ました。野球三昧という感じです。今から音楽三昧ということで。無事勝ちまして(※スージーさんは千葉ロッテマリーンズファン)、月曜の試合っていいですね。
ミ)花火上がってましたね。(※beyfmのスタジオからzozoマリンスタジアムが見える)
スー)そうそうそう、7回にね。スージー鈴木でございます。
ミ)ミラッキ大村です。
スー)今回は久々の「音粋ヒストリア」。音楽業界の重鎮に我々へっぽこ侍が、丸腰で行って討たれるという。
ミ)ハハハ。4か月前に朝妻一郎さんにお話しを伺ったのが、vol.1という事です。今回は私がスケジュールの都合で行けず、スージー鈴木インタビュアーによる独占インタビューです。
スー)心細かったですよー。私にはあなたが必要です。  
ミ)ハハハハハッ。
スー)村井邦彦さん、あのAlfaの総帥でございます。YMO、ユーミン、赤い鳥(のプロデュース)。そしてこの番組では作曲家としてもかなり曲を取り上げております。7/3に東京芸術劇場で『モンパルナス1934村井邦彦作曲活動55周年コンサート』がありました。それに向けてロサンゼルス在住の村井さんが帰国されましたので、ここぞとばかりに「話聞かせてー!」と。朝妻一郎さんの時のそうだったんですけど「そんな細かいこと、今頃わかんないよー」と辟易とされながら、フフッ、執拗に聞くという。
ミ)ハハ、貴重な証言をいただかないとね。
スー)ハハハッ。そうでございます。作曲家で音楽プロデューサー、Alfaの創設者。さっき申し上げたような人々は、村井邦彦という人がいなければ!世に出てなかったと。若い人は村井邦彦を検索してみて下さい。村井邦彦がいないと「ユーミン三昧」も無かったですよ。今日ね、公共放送FMで何をかけてたんだろう、と。ハハハ。全て「三昧」ができるのもね。今から2時間たっぷり「村井邦彦三昧」という事です。聞きたい事がたくさんあったんですけども、まず9時台前半は現在の『モンパルナス1934』の活動、それと時代が変わりまして生まれてから作曲家になるまでの歩み、というのを話したいと思います。まずですね、さっき言った『モンパルナス1934』のコンサートで一番最後アンコールで歌われた曲、赤い鳥の『美しい星』半世紀も前に作られたんですが、地球とかの未来を歌ってます。今のメッセージソングかな、と思う曲です。赤い鳥バージョンの『美しい星』を聞きまして、インタビューにグワーっと行きます。そしてインタビューを聞いた後、Alfa、Alfaと言ってますがそのAlfaレーベルの第一弾のGS。GSって言うのかなぁ…ソフトロックファンがみんな好きな曲、村井邦彦原点のような曲を聞いて、9時台前半たっぷりと村井邦彦三昧。
♪赤い鳥『美しい星』

【エピソード1『モンパルナス1934』と生い立ちと】※スー→スージー鈴木 村→村井邦彦
スー:9の音粋「音粋ヒストリア」と題しております。いつもはふざけた軽薄な番組をやっておりますけれども、たまーに歴史の重鎮にお話を聞かして頂いて、箔をつけようじゃないかという取り組みでございます。前回は朝妻一郎さんにかなりマニアックな質問をして、ちょっと辟易とされたかもしれません。今回「も」凄いですね。あの、村井邦彦さん本人をお呼びしております。ありがとうございます。来ていただいて。
村:どうも、よろしくお願いします。
スー:先日池袋東京芸術劇場で行われました『モンパルナス1934』という、村井邦彦さん作曲活動55周年。
村:はい、いつの間にかねえ、55周年経ってしまいました。
スー:拝見いたしました。ありがとうございます。素晴らしいコンサートでした。
村:ありがとうございました。
スー:一番最後アンコール『美しい星』でちょっと不覚ながら、涙が出て来ました。という訳で今バックに流れて来ましたけれど、これは『モンパルナス1934』という取り組みの音楽なんですね。
村:はい。
スー:どういうプロジェクトかご説明いただけますか?
村:この一年半くらい「リアルサウンド」というネットの雑誌に『モンパルナス1934』という小説を書いているんですね。もうエピソード11位まで進んで、本にして300ページ位書いているんですけど。その小説のサウンドトラックをね、作ったんですよ。
スー:おー、ほうほう。本だけどサウンドトラック。
村:本だけどサウンドトラック。いずれ映画化をするんで、今、映画化の相談をいろんな人としているんです。その映画化するにあたっても音があると作品のイメージがね、浮かぶんではないかという事で、約30分の音楽を作曲して先に録音したと。で、そん中の一番中心的な曲が『モンパルナス1934メイン・テーマ』と言って、これはこないだのコンサートで初演されたんですね。
スー:聞きながら、割とフランス音楽っぽいと言いましょうかドビッシ―とか若しくは映画音楽のような感じがしました。
村:はい。『モンパルナス1934』の小説のストーリーって言うのは、1934年に始まるんですね。で、21歳の日本人の青年が1934年にフランスに行って、モンパルナスでいろいろな芸術家と会って成長して行くと。で、戦争を挟んで、戦争後は音楽ですとか絵画ですとか舞踊ですとか芸術一般のね、プロデューサーとして日本の伝統的な舞踊を世界中にツアーをさせるとか。あるいは反対にブロードウエイの「ウエストサイド・ストーリー」を日本に持って来るとか。国際的に活躍した川添紫郎という人がいて、この人僕、若い頃知ってるんですね。
スー:キャンティの。(※港区麻布1960創業以来、各界著名人が利用するイタリアンレストラン)
村:キャンティの創業者ですから。彼の過ごしてきた人生を小説にしてるんです。わりあい若くして亡くなってね。亡くなった時は1970年大阪万博の富士パビリオンのプロデューサーをやっている時に亡くなったんです。その川添さんの戦前のヨーロッパでの暮らしを中心に書いていて、従って音楽も、おっしゃったようにヨーロッパの感じがするもの。それからちょうどその頃’36-‘37位にスペイン市民戦争が起こって、ここに川添紫郎の大親友ロバート・キャパという写真家が。
スー:有名な写真家ですね。(※’13-‘54ハンガリー生まれ20世紀を代表する戦場カメラマン。第一次インドシナ戦争取材中死亡。日本との関わりも深い)
村:ええ、有名な写真を撮って、恋人のゲルダがそこで事故ですけど亡くなったりなんかして。そういうのが出て来るんで、中にはスペイン風のリズムだとかメロディもちょっと入って来る。
スー:川添紫郎さんの妻になるのが川添梶子さんですか?タンタンですか?
村:えーっとね、2回結婚してるんですね。当時一緒だった人は原智恵子さんという、この原智恵子さんはショパンコンクールに日本人で初めて出場して審査員特別賞を取ったというね。日本の世界的なピアニストの草分けの人なんです。
スー:戦前ですから凄いですね。
村:ええ戦前ですからね。
スー:で、2回目のご結婚をなさった相手が梶子さん。
村:梶子さんですね。
スー:この9の音粋リスナー的には、荒井由実「ミスリム」のピアノが梶子さんのなんですね。
村:そうです、梶子さんの家で撮った写真で、梶子さんがユーミンに、イブ・サンローランの。これはユーミンに聞いたんですけど「なんの衣装だったの?」っつたら、サンローランが作ったニットのフォーマルドレスなんだね。で、彼女はそれを凄く気に入ってたみたいですけど。その、梶子さんですね。
スー:今突然、荒井由実の話が出て来ましたけれども。リスナーの方はもうご承知おきだと思いますが、今目の前にいる村井邦彦さんという方はあのAlfaレコードの村井邦彦さんであり、大作曲家の村井邦彦さんであり、ユーミン、赤い鳥、YMOを世に出した、フフッ張本人でもあるという事でございます。『モンパルナス1934』の話に戻りますが、拝読しまして、戦前に日本人がロバート・キャパとか岡本太郎とか、ヨーロッパで欧米人相手に丁々発止渡り歩いてるっていう、こんな日本人がいたのかぁと思いましたけどね。驚きましたね。
村:はい、日本がそういう国際的に認められたのは第一次世界大戦で戦勝国になって、1919年にベルサイユ条約を結ぶ為に、代表団がフランスに行ったんですね。その辺から一応世界の一等国入りをした訳で、国産連盟ってのがあって、そのこの次長に日本人がなったりして、やっと日本が国際社会に入って行って貢献をし出したとこなんだね。だけどし出した途端にヒットラーが出て来るは、日本でも軍国主義になって来るは、って事で、一回日本は潰れちゃうんだけどね、戦争に負けて。その後復興して元に戻って現在に至る。こういう浮いたり沈んだりがあるんですけども、確かにその時代の日本人は世界を目指していましたね。
スー:数少ない日本人がヨーロッパで飛び回って活躍して行く、ああいうのがあってこそ今の日本があるかなと思いながら拝読しました。
村:はいおっしゃる通りです。
スー:1945年にお生まれですね。
村:はいそうです。
スー:歴史の転換点にお生まれになって。
村:僕ね最後の戦中派なんです。
スー:最後の戦中派?
村:戦争が終わるのは1945年8月半ばですけど、僕生まれたのは3月ですから。東京で生まれましたから、東京大空襲の一週間くらい前です。
スー:ええーっ。ああそうでしたか。
村:生まれた途端に。慶應病院信濃町の近くの産院にいたんだけど、フフッすぐ、防空壕に入って東京大空襲にあって、すぐ長野県に疎開をした。もちろん自分じゃ覚えてないけどね、母親から聞くわけですよ。なるほど自分はそういう境遇で生まれたのかと、思うよね。
スー:象徴的ですよね。1945年生まれという。ちょっと自己紹介します。私、音楽評論家としてラジオとかで喋ってるんですけど、1966年昭和41年生まれで、中2の時にYMO旋風に巻き込まれ、Alfaって書いてあるレコード買いまして。で、そっから段々マニアックな方に行きまして、昔のグループサウンズとか好きになりました。確か山下達郎のサウンドストリートだったと思うんですけど、彼が選ぶGS特集みたいな番組がありまして、フィフィ・ザ・フリーを聞いたんです。あれぇっ!なんか違う。筒美京平、鈴木邦彦とは違う音だなあと思って、いろいろ調べてみました。このAlfaの村井邦彦さんは昔、作曲家で、こんなに洗練された音楽を作ってらっしゃったんだという驚きがありました。そっから更に調べて行きました。お育ちとかこれまでの経緯とか聞かせて頂きたいと思います。ここにいくつか資料があるんですが、「村井邦彦のLA日記」(リットーミュージック)という本があります。現在でも拠点はロサンゼルスですか。
村:そうです。もう30年になります。
スー:たまーにこういう感じで東京に帰って来られる?
村:そうですね。コロナがありましたからね3年ぶりで東京に帰って来ました。もういろいろ変わったんでびっくりしました。
スー:ああ、変わりましたか。
村:いやいやだって、みんなマスクしてどこか行くと必ず体温測って。ホテルも大変ですよ。ルームサービス、昔は24時間やってたけど、今は10:30で終わっちゃうからさ、食べ損ねることもあるし。フフッ。
スー:おしゃれな音楽作り続けた村井さんに、ひもじい思いをさせてすいません。ハハハッ。
「村井邦彦のLA日記」って言う本と、松木直也さんが書かれた「村井邦彦の時代」(河出書房新社)、様々な手がかりから音楽歴史探偵として聞きたいんですけど、まず興味深いのは大学時代にレコード屋さんだった。「ドレミ商会」というのを赤坂に作られたと。どういう経緯でレコード屋を作られたんですか。
村:子供の頃からね、レコードと本が大好きだったんですね。共通してるのはね、記録なんですよ。文字で書かれた記録かあるいは音楽の記録、そういう事に凄く興味があったんですね。小中高を通じてお小遣いの使い道っていうのは、レコードを買うか、本を買うか。まぁだからレコード・本マニアだったんだね。だから大学生になって、普通は就職する人が多いんだけれど、なんか自分でできる仕事をやりたいって考えていて、偶々ね学校のオーケストラの先輩がコロンビアレコードにいて「ナニしようかなあと思ってんですよ。なにか音楽に関係した仕事がしたい」と話したら「じゃあ、村井君レコ―ド屋やったらどう?」自分がコロンビアの社員だから、コロンビアの特約店の資格を話つけてあげるから、やんないかってんで始めたんです。
スー:特約店っていうのがあるんですね。
村:そう。だって契約してそっから仕入れなけりゃいけないから。
スー:赤坂のホテルニュージャパンの横のビル。
村:はいはい。そう。
スー:当時どんなレコードが売れました?
村:えーとね。そこはナイトクラブが多いトコだったのね。
スー:あの、ラテンクォーター。
村:ニューラテンクォーターの隣ですけどね。だから洋楽系が随分売れましたね。
スー:当時の赤坂と言っちゃあ、おしゃれな街だったでしょうね。
村:そうですよ。ビートルズの頃から武道館でもってコンサートが始まりましたけど、その前のロックじゃない、例えばナット・キング・コール(※1919-’65 アメリカジャズピアニスト・歌手)とかああいう人達は日本ではナイトクラブでやってた訳ですから。ま、非常に洒落た洋楽ファンがたくさん来る地域で、そこでやってたレコード屋だから、やっぱり洋楽が中心ですよね。
スー:僕は村井邦彦という人を見ていて、作曲家として黄金時代を作りながらビジネスマンとしても成功するっていう、日本の音楽界では稀有と言いましょうかほとんど一人しかいない存在だと思うんです。そのベースにはレコード店の経営で、音楽の話だけじゃなくてビジネスの勘所も掴んだんじゃないかと思ってるんですけど。そういう感じありますか?
村:そうですね。僕の家の家系はね、学校の先生か実業家どっちかで。ビジネスをやる事に関しての勘みたいなのは、やっぱり家族から来てると思うのね。例えばさ、大学生の子供が「レコード屋やるからね、金貸してよお父さん」って言って(笑)、お父さんが「いいよ」って言ってポンと貸すってあんまり無いと思うんですけど。
スー:フフッまあ、ほとんど無いと思います。
村:そういう事業、特に僕の祖父がいくつも会社をやってるような人だったんで、そういう事に理解があったんでしょうね。で、なんか日常の会話の中でも、会社の経営について祖父がね、なんだかんだって言ってるのを小さい時から聞いてますから、なんとなくそういう勘があったんだと思います。
スー:ドレミ商会の経営は順調だったんですか?
村:凄く良かったです。と言ってもスモールビジネスですからね。作曲の仕事が軌道に乗った時にこれはもう、やめてしまおう、作曲に専念しようという事で、作曲に行った訳ですね。
スー:音楽界に来ていただいてありがとうございます。
村:はい。

♪フィフィ・ザ・フー『栄光の朝』
スー)ちょっと教養番組みたいになりましたね。「いつからだよ?」「今日よ」  ミ)おお。
スー)インタビューの中でも話してましたけど、フィフィ・ザ・フー『栄光の朝』調べたら、1985年12/12山下達郎サウンドストリートのGS特集でかかってます!私、浪人時代何しとんねん、と。こういう曲聞いておりました。村井邦彦さんの生まれから、どうでしたか。
ミ)ビジネスから作曲家からAlfaへ。Twitterでも《朝ドラになりそうな話》と。
スー)ハッハッハッハッ!「邦彦くん」ね。「邦ちゃん」。
ミ)(笑)これ、朝妻一郎さんの時も同じ事言ってんですよ。朝ドラにしたいって。
スー)ハッハッハッ!「一っちゃん」。じゃあ、ドレミ商会にフォーククルセダーズのシングル買いに行く少年役で私、出たいな。ハハハッ。
ミ)少年じゃない。ハハ。印象に残った言葉は《共に記録なんですよ。レコードも本も》。Twitterでもゆかりさん《「レコードは記録」最近どこかで聞いたと思ったら、山下達郎さんのラジオインタビュ―でした》と。現代は本も電子書籍、音楽は配信、記録として残るのかな。頼りないなと思ってしまいます。
スー)あーいい話振りましたね。それ、2時間語りたいですね。  
スー・ミ)ハハハハッ。
スー)思います、思います。
ミ)自分も結局記録が好き。
スー)私もそうですね。本とレコードが好きなのは村井邦彦と同じなんですけど、何かが違う、ハハハッ。
スー)Twitterにらたまさん《前回朝妻一郎さんもそうでしたが、村井邦彦さんもとても柔らかな話し方をされる方ですね。》
ミ)そうですね。
スー)だから一人が寂しかったんですよ。東京エスタブリッシュメント、東京のお坊ちゃま、品のいい方を目の前にして、私の野卑な感じが目立っちゃうんですよ。
ミ)でんねん、まんねんが。フフ。
スー)そうそう。言葉が違うでしょ。なんか。なんかヤラシイおっさんが。
ミ)でっしゃろかいな、ですからね。
スー)そうそう。それが非常に気おくれしましてですね。せめて埼玉辺りを入れたかったんですよ。(※ミラッキさんは埼玉出身^^;)
ミ)アーハハハハッ!
スー)次回は是非!気おくれする、っていうね。私も東京に生まれたかったですよ~。でも東京大空襲直前は嫌ですけどね。ハハッ。という訳で段々私も図に乗って来まして、様々な曲をかけながら、この曲のこの部分どうなの?なんて割と細かい突っ込みをゆっくりと、のっそりとし始めるという事で。大学時代ドレミ商会というレコード屋さんを始め、そっから呼ばれて作曲活動を始める。もう、下積み無しでヒットをガンガン連発する。私がこの番組でかけてるように、まあ大体ねぇ、ソフィスティケートなシュッとしてる感じ、フツーのGSじゃなく、村井邦彦味がついてる曲のイントロを何曲かかけて、その曲のあの部分どうなんですかって、上品なオジサンにいやらしく聞いてます。作曲家としての村井邦彦さんの黄金時代についてイロイロ質問をしてみました。
《➡Ep.2へ続く》

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