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分からないことを分からないとすること。

いま「レヴィ=ストロース入門」を読んでいる。

ここで出てくる「ゼロ記号」という概念について少し思うことがあったので書いていく。

本書ではゼロ記号を

代数の記号と同じように意味の不定値を表すはたらきをし、自分自身は意味を欠いているゆえにどのような意味をも受け入れる

と説明している。

要は分からない値にはとりあえずXを当てはめましょうということだ。

人は分からないものを分からないままにしておくと、脳に負担がかかる。大抵の悩みは何に悩んでいるか分からないから辛いのだ。なので、理解ができないものにはいったんXに置き換えることで一時的に認知をラクにしましょうということだ。

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具体的な例をあげてみよう。

身近になにをしてもうまくいく人がいるとする。落し物しても他の人が届けてくれるし、家に帰った途端に雨が降るし、乗り過ごしたと思ってた電車が遅延してたり。

そういう人を私たちは「運がいい」という。運が何かよく分からないけど、それがあるからあの人はなにをしてもうまくいくんだ、と認識する。

なにが起きているのか分からないけど、とりあえずは「運」という目に見えないものが存在して、それが作用しているんだとすることで認知の負担を減らしている。

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さて、ここまでの話で私が主張したいのは分からないことは分からないんだからとりあえずXを代入しといて置いておこうよ、ということだ。

解けない問題がある時、なんか分からないけど辛い時あると思う。そういう時、分からないままにしとくのがイヤな私たちはなんとかこじつけの理由をつけたりする。でも、こじつけの理由をつけたところでそれは歪んだ認識をもたらすだけで、根本的な解決にはならない。

分からないものは分からない、それでいいと思う。他のことに着手して後からまた戻ってくればいいと思う。時間をおいて戻ってくると「わかった!」ってなることあるしね。

分からないことに分からないという認識を与えること。それだけで負荷は軽くなるし、なにより健全な認識をするために必要な段階とも言えるんじゃないだろうか。

読んでいただきありがとうございました。