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考え方についての考え方について

どうも、ゴリ松千代です。


はるか昔の話をするが、「どうして考えてしまうのか、答えを出してみて」と言われた。なんだよ、答えって。遅めにやってきた三度目くらいの思春期、私は『考えすぎてしまう事』に対してとても疲れていた。何故私はこんなにも余計な事に思考を巡らせてしまうのだろう、と余計な思考を巡らせた。南を向きながら北へ這いずっているような感覚だ、まるで進んでいる気がしない。そんな私のモヤがかった燻製脳味噌に対する『応え』は、考えに考え抜いた末に考える事自体に意味があるという事で落ち着いた。これに関しては結果だけ記さないととんでもない文字数になるし、そもそもその過程を言語化しようだなんて発想にはこの何十年の間には至らなかった。ああ、どこか一定の場所に書き留めておけば良かったな、とまた少し後ろを振り返る。「周りの人間に言っても伝わんねーだろ」くらいのもんで、まさか『自分のために書く事』が有意義に働くとは思ってもいなかったのだから。

考えるのを止めないという考え方は私の良いところだ。このnoteのようにその時に思った陋見を延々と書き残し、過去の自分が未来の自分を頷かせたり首を傾げさせる。自分との対話で磨かれる自分は時に頑固にもなるが、そんな固くはまったパーツを入れ替える事が出来るのもまた自分で、まるでテセウスの船のようなシステムで私は変わり続ける。変わっているのだから、矛盾でもダブルスタンダードでもない。『変化を愛する』と20代の私は言っていた。それは結果論でもあるが、自他共に向けた慈愛の気持ちでもあったのだろう。

変化に富む優れた処世術はモジュラー化及び細分化されたベンザブロックのようなものだ、とある日私は他人に言いかけた(冗談めかしたくせにパッと見では分かりにくい上、大層なご講釈になるため言えなかった)。つまり私には私の、お前にはお前の生き方があって、要る部品、要らない部品、更には何となく手元に置いておきたい部品や心に飾っておきたい部品も違うだろう、という意味だった。

これを内ではなく外に思考を任せる人間もいる。近所の本屋に並んだ書籍や、主語がクソでかいおかげで瞬時に飲み込めるSNSのあの言葉。気付きを与えてくれる、背中を押してもらう、自分を肯定させる等、受け取り方や探し方はそれぞれにあろう。こういった場所で誰かの言葉を探し続ければ自分を肯定する意見は必ずある。生きる事はもちろんの事、極論死ぬ事さえも肯定してくれる。だが本来自己啓発の類は完全な状態で外に落ちている訳ではなく、無理なく自分の生き方に合った物を選び、取捨選択や推敲の余地があるはずだ。私は考える人でありたいのでこうなったという話がしたかった、だからnoteに長々と書いているのだ。今日は。

無理やり自分に落とし込んで生きたい人というのは理解こそ出来るが、「なるほどそういう考えもあるのだな」という視点を自分に向け、俯瞰的に見て、常に疑問をぶつけていきたい気持ちが私にはある。もっと主観的に突っ込んだ話をしてしまえば、知らない著名人がこちらに押し迫ってきた『お前がすべき生き方』は私には高尚すぎて使えなかった。その結果に行き着くまでの行程や磨かれた胆力を一切無視して完成品だけ渡されているのだから当然だ。私の生き方は私が経験し、私が一から考え、一から作っていくと歯車が噛み合い、そしてよく動いた。

歯車と言えば(知らん人には唐突な話になるが)、私はロックマンが好きだ。彼の立場で考えてみると、失敗を経験にして前に進み、敵となる障害を乗り越えた時にその武器を自分のものとする姿勢があるのが分かる。青ブルマだなんだと揶揄される事もあるが、そうやって得た知識や経験を考えたり取り込んだりして自分の持つスキルを洗練させていけるような極彩色の存在に私もなりたい。めちゃくちゃ良いだろ、こういうロックマンみたいな人生。

窓の外を見れば雪が溶けている。ここまで来るのに大分時間がかかった気がする。私の思考は生々流転。何処かの誰かが持ってきた料理ではない、自分のために自分で作ったレシピだ。手前味噌が美味いなんてのは当然の帰結だが、「こう作れ、こう生きろ」などと押し付けないように気をつけなければいけない。


考える事が無料で出来るってとんでもないコストパフォーマンスだよな。これが脳への有料課金制ならとんでもない高額請求が来るところだよ。

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