実態と発信の匙加減、その狭間

どうも、ゴリ松千代です。


喜び、嬉しさなどの『幸せ』を発信する事は難しい。忙しい=正義と信じてやまない人間が散見されるからだ。SNSを見ていても、やはり不幸自慢は声が大きい。若いなら「若気の至りだな」で済むが、自分のため(我儘に生きるという意味ではなく、未来の自分)に何もして来なかった人間が「あれがない」「これがない」と言っている様は愚かという他ない。他ないが、見物しているだけで自己肯定に繋がるという利点が一応はある。こうならなくて良かった、自分は動いてきて良かったと。友人や余裕ある時間、結婚や妊娠、給料や貯蓄、株やNISAなどの投資や不労所得……ああ、言いにくい。純粋な幸せに対し、そんなに目くじらを立てるな。

逆に「私はこれだけ悩んでいます」を前面に押し出したとして、誰が救われるのだろう。冒頭で「不幸自慢は声が大きい」と言ったが、私がそれをするかと迫られたらその選択肢の優先順位は低い。でました!メンヘラ仕草!などと合いの手を入れられるのが関の山。それは言い過ぎだが、ネガティヴな話題は他人を引き摺り込む魔性の側面を持っている。一緒に悪口を言うようになる、テンションに引っ張られて自分も落ち込む他、様々な影響を自他共に与えていく。自ら人を離れさせるには良いが、逆に変な奴を呼び込む恐れもある。本当ではあるが取るに足らない小さな失敗を小出しにしていく日常が、私の本分だ。

「いや、私は幸せばかり発信しても周りに煙たがられないよ」と言い切れる方は他人の思考を完全に読む事が出来ます。おめでとうございます。そんなすごい人はさておき、世渡りの術として周りへの反感を買いにくい立ち回りをする事は百戦錬磨に近付くために必要な経験値でもある。初対面でいかに明るくプライドを捨てられるか、いかに明るく自分を下げられるかで懐への入りやすさも違ってくるからだ。いきなりの自分語りはコミュニケーションに難がある。私は死ぬまでに色々な人間を見てみたいので、距離感のおかしい人は学んで踏み台にするし、更に上位の存在に出会うためには自分から動くしかない。余計なやり取りで傷付く事もこの長旅には必要経費なのだろう。

かと言って大きな幸せや重い悩みを打ち明けずに面舵取り舵精一杯バランスを取って軽い日常を発信していると、想像を巡らせる事の出来ぬ純真無垢で清廉潔白な方が「俺は忙しい」だの「悩みがなさそう」だの……ああ、好き勝手言えて羨ましいよ、正直。私は楽をするために苦労をしてきてこの歳になってようやく報われているが、苦労というステータスそのもののために苦労しているような人間がいる気がしてならない。『私の中での』発信の難しさ、お分かり頂けただろうか。


この話には続きがあって、言いにくい事が堂々と言えるタイミングが存在する。それはまた、近いうちに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?