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日記/岩屋

日記/岩屋

 『はにま通信』は、世の中の、女学生×キャンプ部とか、女学生×軽音部とか、女学生×ミリタリーとか、女学生と趣味を掛け合わせる系譜から、女学生×古墳(あるいは古代)を着想した。
 いきなり万葉集が入ってくるけれど、万葉集の成立と古墳は時代が違う。
 ただ奈良を歩いてると万葉歌碑と古墳と仏教がボロボロあってなにか時間と歴史が圧縮され混ざっている感じはある。
 現在から過去を振り返るときの記憶はいつも圧縮されてしまう。
 大和三山のことも、風景として好きなのでいずれ描きたいから中大兄皇子の歌を入れておいた。これは橿原のゆるキャラだ。頭に山が三つ乗ってある。

 一話目の副題は「岩屋山古墳」と迷ったが井伏鱒二の『鯉』にあやかった。井伏鱒二は風景描写にそれとなく感情を溶け込ませる(ことがある)『朽助のゐる谷間』などの初期の作品を読んでいると、隠された屈託や性を感じる。文章のどこに隠された意味があるのかというと、たぶんここかなと想像はできてもよく分からない。
 だから分からん分からんと頭を捻りながら井伏鱒二を読んでいる。
 つげ義春は井伏鱒二の手法を漫画に持ち込んだ。自分が中学のとき『紅い花』などの短編を読んで、なんとなく面白さが分からなくても感動したので漫画を描き出す事になった。17歳のときの漫画でデビューしたから、そろそろ10年がたつ。今月で27歳になる。

 つげ作品のルーツに井伏鱒二がいることや、その井伏鱒二と妻が同郷だったことに縁を感じたのである日全集を読みだした。
 井伏鱒二の初期作品には野蛮なものがある。
 チェーホフの短編をモロ真似した今なら問題の『幻のさゝやき』や、左翼が「大輪朝顔」の種を無理やり女子学生に飲ませようとする伏字だらけのドラッグ小説『かゝる恋愛』など。『歪なる図案』も前衛的で最後に突然訳の分からない数式が出てきて終わる。当時の文学青年の理屈っぽい随筆もある。当時15歳の子供と結婚したのも時代とはいえ野蛮さを感じる。

 井伏鱒二は生前の「自選全集」にそれらを収録したのかどうか持っていないから分からんが、隠された何かを見つけた気がして嬉しい。二十代で『山椒魚』とか『朽助のゐる谷間』とか描いているから最初から完成されていたのだけれど、とはいえ実験も繰り返していたのだなと思った。

 SNSを見ながら、山椒魚じゃないけれど自意識の《岩屋》に閉じ込められて、ただ外を眺めているような気分になる。パレスチナの映像が流れてきて、ボロボロの子供の死体をずいぶん見た。様々な死を感じる。SNSを通していま一番、切迫した死を身近に感じている。
 自分にとっての真っ当な意見を信じることは、正しさを妄信する愚かな人間で、愚かな人生を生きるということだ。だけど愚かな人間を嘲笑しながら、沈黙して現状を静観する者は、愚かな人間による大きな流れに流されて、閉じ込められた山椒魚のように死ぬことになる。
 だから愚かで曖昧な、間違っているであろう自分を引き受けて、間違った発言をしながら、外に出ようともがくしかない。その考えは自作にも現れてくるかもしれない。

 現代は漫画家に限らず、芸人もyoutuberも、政治家も、みんな目立つことが最優先なので、自分もその流れに身を任せながら、なんとか漫画を売って生計をたてるのだけれど、生理的な嫌悪感はある。
 《極端なこと》とか、世間に対して《尖っている》とか《孤高》だとか《唯一無二》だとか《芸術家》だとか《カリスマ》だとか《天才》だとか《独特の世界観》だとか、そういう売り文句、あるいは言葉にされた時点で《ありきたり》という矛盾。それから逃れたくなる態度の方が自然だ。
 それが行くところまで行くと「蒸発」したくなるのではないか。井伏さんにもそんな気持ちはあったかも知れない。昔からこういう自意識の人は居たようである。

箸墓古墳

 井伏鱒二が『山椒魚』から『黒い雨』をへてどこを目指していったかを追っていくのは楽しい。
 今は職人のように漫画を描き続けて、中途半端で凡庸な生を漫画で肯定する必要があると考えている。この世界でそれより価値のあるモノはないからだ。死んだ子供の映像を見ればわかる。

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