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漫画を描く方法《坐禅》《念仏》《石室》

 漫画を描く方法が分かった。《坐禅》《念仏》《石室》の三つだ。
 物語の構造に先立って漫画を描こうとしたらそっちの方が難しい。『奈良へ』を描いたときはストーリーのことは全くの無知だった。描きたいモノへの怨念が強かった為に(それはしょっちゅう深夜の東大寺南大門へ駆け出していたことからも分かるように)ストーリーはどこかへぶっ飛んでしまって直感で描いた。
 歳をとるというのは小知恵がつくということで、その結果分かりやすく物語化されて鈍るモノもあるらしい。
 先生の言っていることが分からなかったのは、頭が悪い子どもだったからだ。自分が話していることも書く文章も、語るそばから嘘になるので信用ならん。よく嘘をつく子供だったらしい。4月2日午後9時14分に思いついたことは、これからはおれが漫画を描こうとするのではなく、おれが漫画になる。そのやり方だ。
 現世の理屈は通用しない。一旦、黄泉国を通過する必要がある。そうすると結果的に漫画が面白くなるし、面白くなれば、当然売れやすい。売れるための知恵はいつも絞ってきた。
 肝心の方法は、ここ最近また永平寺の動画を観ていたことで気づいた。夫婦で飯を食うときも妻に雲水の動画を観せる始末だ。
 気を抜けば、また坊主になる危険性があった。妻は金を出すから美容室へ行けという。坊主にすれば泣くという。しかし禿げつつあり、似合う髪型は存在しない。似合う髪型が存在しないのなら、まず髪という概念から破壊していく。そうやって生きてきた貴様ような奴は、まず、坐禅を始める必要があるだろう。道元ならそうおっしゃるだろうと思って正法眼蔵を読もうとしたが何が何やら分かりやしない。というのも道元の教えは俗世から離れて実践しなければ意味がない。
 108歳まで生きた宮崎禅師によると、坐禅をしてるときは何も考えないのだと、立松和平に語っていた。立松和平を読んでいるZ世代を見たことがない。自分は今後も読む事はない。和平が言うように坐禅は「雑草がはびこるように……」想念が次から次に浮かんでくるのだから、何も考えないというのは、やってみれば分かるが、素人にできる訳がない。
 しかも気圧が悪いと集中もできやしない。でも他にやりようが無いのだから無理矢理に坐禅でもって存在を乗り越えろと、自然そのものになれと、わやくその坐禅をしたら《おれが漫画になる》と三行書く。それは毎日書き続けると念仏になる。念仏は大脳に作用する。念仏が好きな子供だった。自分だけに分かる記号で、棒が一本や二本のときもあったし、風車のような形もある。ノートのはしが真っ暗になる。高校まで続けた。般若心経も勿論、クロッキー帳に3Bの鉛筆で書き写した。好きな女子に「見てくれッ」と暗い紙を見せびらかした。授業そっちのけで念仏に熱心だった。道徳の授業だけは真面目に聴いた。道徳を愛していたともいえる。今は地獄に堕ちるがいい。子供の頃に多動性があったと母はおっしゃる。俺だけが着席しないのは、発達障害の特徴だと最近知ったが、当てはまらない箇所もあるから当然、認めてはいない。極端に飽き性なのは関係があるのか分からない。とにかく、そんなものは俺が認めない。もはや常識は通用しないからだ。
 坐禅を続けると、『はにま通信』を描きだした理由も同時に分かってくる。絶対に古墳を描かねばならぬ。絶対にだ。そう思い立って、奈良盆地へ駆け出していった。
 古墳を描くためだけに話とキャラを決めて連載を始めたが、理屈で考えると巌にぶつかる。石室にはいり、奥まで行って、また出た。それを繰り返して気づいたことがある。
 よい作品はいつの時代も色々な意味が入る堅牢な器で、古墳の形も色々な解釈がある。古代の人は色々な解釈ができるように形を作ったのかも知れない。
 闇
 生と死
 過去と未来
 黄泉の国
 無意識の深層
 神話
 産道
 子宮
 色々な言葉が頭に浮かんでくる。この言葉が漫画に影響を与える。古代の人はもっと純度の高い言葉を持っていたかも知れない。生と死が円環になっているような感じがする。現地に行くとなんとなくそんな感じがする。黄泉の世界があるなら、誰も死んだ後のことがわからないので、黄泉の世界は理解を超えている。
 はにまが一話目から石室へ行った理由は、それはあの日、何となく俺が飛鳥の岩屋山古墳へ行ったからそのまま漫画にした。
 漫画と生活は一体になりつつある。例えば朝から漫画を描いていて、正午に飯を買いに行くとする。外に出て見ると、もう春で、花韮が道端に咲いていた。綺麗な花だった。
 花韮というのは白い小さな花で、根からニラのような香りがする。それを摘んで帰って、小瓶に挿して机に飾る。今、描いている漫画の背景にもなんとなく描いてしまう。その花韮は重大な意味を持って作品全体のストーリーに大きな影響を与える。そうすっと道端で花韮を摘んだ行為は、なんとなくやったことだから創作で思考したといえやしない。そういう状態で、環境や気候に左右されて描くのは、慈悲をかけて下され! という、祈りに近い。とにかく目の前のコマを描いてみないと次のコマを描けない。前のコマに影響されて、とんでもない事になる可能性がある。自分の手に負えやしない。
 俺が何を描きたいのか、それを確かめる為には古墳へ行って戻ってくる。そうやって巌を迂回する。黄泉国へ行き、黄泉国の理屈で漫画を描こうと意識する。イザナギは黄泉国で、追っ手に桃をぶん投げた。槍や弓ならまだしも、桃ではどうしようもない。しかし効く。
 現代では発掘された石室の扉は開かれている。とにかく象徴的に行って帰ってくればいいのだった。それはシンプルな解決法だ。つまり漫画を描く方法は《坐禅》《念仏》で俺が漫画になろうとし、漫画である俺が《石室》へ行って帰る。これを繰り返す行だ。
 神も仏も人間が作り出したものだ。ただ、その神や仏と人間の無意識の上にまたがる謎のファクターをこそ信じる。それを見つけなければならない。いつか慈悲をかけて下されと祈りながら。

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