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日記/寄せて返す念仏

 2月23日

 漫画。
 井伏鱒二の小説を読むと物語からカタルシスや強い感情をとり除いて成立させていることに感銘をうけるが、成立という言葉が適切かは分からない。井伏さんの小説は分からん分からんと言いながら読んでいるからだ。
 ただそういう小説だけではなく、胸踊るようなエンタメ、ハリウッド映画のようなくっきりした物語は子供の頃から好きだ。長くなりそうだが最近思うことがある。
 漫画家という仕事柄もあるが、キャンベルの神話論や脚本術的な本、キャラクター論の本を何冊か読んだことがある。そういうことは漫画家以上に編集者も詳しいようだ。昔から語り継がれてきた神話や民話に、人間の深層の、個人的な体験を超えた普遍性がある事や、スターウォーズがキャンベルの神話論を基に作られたという話も有名らしい。自分もキャンベルの本には感銘をうけて(キャンベルが根本から人間を励まそうとしている気がして)付箋が本棚に引っかかるのだけれど、そういう神話を組み込んだら売れるという脚本術的な考え方はいささか安直だと思っている。
 奈良の古墳を巡りながら感じたその違和感、西洋人の深層と日本人の深層は性質の異なるモノだろう。自分は物語が好きなので脚本術的にプロットを作る。憎むような時もあるが好きで、真面目に考えることは考える。それから原稿へ向かううちにある地点で物語がほつれてこんがらがる。こんなことを言いだしたのは『はにま通信』が最初から物語がほつれたからだけれど漫画を描いているとこうなる。
 奈良盆地が俺をそうさせるのではないかと睨んでいる。都市の上の話ならそうはならない。物語はこんがらがるので、まつるのだけれど、まつるそばから違うところがほつれるようになる。
 じつは、阿呆のような話だが、古墳やら地蔵やらを描くときにそうなる。くっきりとしたプロットが脆くも頽れる。なんにも論理的な説明が無いが実際そんなことで、知能の限界かも知れない。そこから先は無意識の力に導かれるというような事は能力を過信しすぎている。おそらく深層の澱のような何かが遠因で、それは仏間に親戚で集まったときの念仏かも知れないし、図書館で読みあさった民話かもしれない。吉四六が二十年の時を超えて逆襲してくる。そんな阿呆な話は、あるのだろうか。だから、ここ最近はそっちに興味が出ない訳にはいかん!
 
 海外からの物語と日本古来の物語と、ぶつかり稽古のように古事記は成立した。たしかそんな感じだった気がするが、奈良を描いていると、そんな気分になってくる。ハリウッドの脚本術的な発想からは距離をとってしまうのか次回作を描いてみないと分からない。売れない方向へ進んでいるようだと思う人もいるかも知れないが、絶対にそんな事はない。念仏がそんなに気にかかるのには訳がある。説明したって分かりやしないがそもそも自分は分かっていない。いつも読者を喜ばせたいな。漫画が面白くなって結果売れればよいとな思う。

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