『ストレイ 犬が見た世界』を観て、彷徨っているのはきっと〇〇だと思った。
社会を見る、まなざしのアングルを、思い切って下げてみること。
犬の視点から、幸福や共生を考えてみること。
stray(彷徨っている)は犬なのか、人なのか、はたまた、犬と人々の関係そのものなのか。
============================
■ 『ストレイ 犬が見た世界』
『ストレイ 犬が見た世界』というドキュメンタリー映画を観た。
野良犬が多いことで有名なトルコのイスタンブールの路上を舞台に、愛犬家の監督が、そのカメラの目線を犬の高さまで落として、野良犬(stray dog)の暮らしぶりを追った作品。撮影は2017年~2019年の2年間をかけて行われている。
映画を観ている中で個人的に印象的なのは、車が行き交うような都会の真ん中を、当たり前のように歩き回っている大きな犬たちの姿だ。
とにかく、犬、犬、犬。
日本で言えば、鳩やカラス、野良猫のようなノリで、大型犬たちがのそりのそりと街を闊歩し、じゃれ合い、ゴミを漁り、その大きな姿を景色の中に溶け込ませる。
■ 日本人と野良犬
現在の日本では特定のエリア(中国四国地方など)に行かなければ、ほとんど野良犬の姿は見かけない。都会に住んでいる人は、見たことがないままに生涯を終える人もいるのではないと思うほどに。
でもそれは、1950年に施行された「狂犬病予防法」によって、多くの悲しい犠牲が出たからにすぎない。そしてそれは今も、「抑留の義務(※)」と「殺処分」という形で残っている。
この法律の制定当時から日本の動物愛護の歴史を見てきた人のノンフィクションを思い出す。犬たちは追われ、撲殺され、予防員の方々は、とても言葉に表せないような痛みを心に背負ってきた。
以来、野良犬の数は減少し、今では狂犬病の「清浄国」とまで呼ばれるようになった。累々と積み重なった悲しい遺体たちの上に、この「狂犬病がない日本」は成り立っている。
だからこそ、ウクライナからの避難民が連れてきた飼い犬たちの処遇を巡ってもひと騒動が起こった。
■ トルコ人と野良犬
映画に映し出されたように、トルコでは野良犬の姿があちこちで散見される。しかしトルコの国民は彼らを捕獲して殺処分する道ではなく、一定の管理の下、彼らの街での存在を容認する道を選んだようだ。
これを「良い例」とみるかどうか。
そう簡単に答えを出すことができないこともまた、「人間と動物の関係性と共存」というテーマの面白さであり、複雑さでもあるんだろう。
■ イスタンブールを彷徨うものたち
作中に、服を着せられ、着飾られた散歩中の飼い犬(チワワなどの小型の純血種)たちと、大柄で雑種の野良犬たちがわざとらしく対比されたシーンがあった。愛情を注がれ、守られた環境で育ち、安全な食べ物を食べる小綺麗な飼い犬たち。一方で、ゴミをひっくり返し、骨を巡って争い、暑かろうが寒かろうが、野外で寝ることが当たり前の野良犬たち。
しかし、それを安直に「哀れだ。」と片づけていいのだろうか。
シリアのアレッポから難民としてトルコにやってきた若者たちが、市民権がなく路上生活をする中で、「犬を飼いたい。譲ってほしい。」と言い始めるシーンが印象的だった。
このシーンを見て、以前、ヨーロッパを旅したときに、冬のローマの街の隅で出逢ったホームレスたちと犬たちを思い出した。
アメリカのシアトルで、猫と路上で暮らしていた男のことも。
凍るような寒さの中で、路上の隅にうずくまり、僅かなコインが入っている空き缶をうつろな目で見つめている男たち。
「They are my family.」
明日のわが身も心配だろうに、彼らはそう言って犬たちにパスタを、ピザを食わせて、愛おしそうに犬を見つめた。ドイツで出会ったホームレスは、スーパーを出てきた瞬間、まず最初に自分ではなく、犬に餌をやった。
「ほら、ご飯を買ってきたぞ。」と言っていた。
映画の中の若者たちと犬の間にも、そしてヨーロッパで出会ったホームレスと犬たちの間にも、なにか似たような、そしてどこか暖かな、そんな関係性を見た気がしている。
きっと犬は、人間を身分や持ち物で推し量ったりはしていないのだろう。
注がれた愛情や友情に対して、ただ対等に応えているだけなんだろう。
そこには無条件な愛の交換があるんだろう。
だからきっと、難民の若者たちも、ホームレスたちも、社会から見放されたような心細い環境の中で、無条件に慕ってくれる存在との交流を通じて、自らの尊厳や、魂の慰めを見出しているのではないだろうか。
「保護された安全な環境下で暮らした方が犬も幸せだ」
「面倒を見れなくなったらどうするんだ」
もちろん、そう言ってしまうのは簡単だ。
でも、社会の秩序や、未来の安定性や、自分たちの物差しで、今この瞬間を懸命に生きている他者の幸福を勝手に決めつけてしまうのは、どうしても傲慢に感じてしまう。
少なくとも、ダウンコートに犬を包み込んで震えながらも愛しそうに犬の頭をなでていたホームレスの男性に対して、「貴方には犬を飼う資格はない」なんて、とても言うことはできなかった。むしろ、忙しさを理由に朝の散歩の時間を短めに切り上げがちになっていた、飼い主としての自分を恥ずかしく思った。
しかし、これを美談に片づけられないのが悲しい。難民の問題は言わずもがな、ホームレスも犬も飢えと寒さに震えていること、狂犬病で亡くなる人が世界にはたくさん存在するということは、まぎれもなく緊急の対応を必要とする深刻な問題で、彼らの幸福を、恵まれた環境で生きる私たちが判断するのは、どんな判断をしたところで傲慢さを孕む。
■ 彷徨うのは犬か、人か、私たちか。
イスタンブールでは多くの犬が野良犬として生きている。野外という環境は過酷(飢え、病気、事故、寒暑、ケガなど)で、残酷な世界だが、同時に何よりの自由があり、支え合う仲間もいる。
イスタンブールの難民の若者たちと犬も、ホームレスと犬たちも、彼らはきっと、足の本数という垣根を越えて、互いを必要としあっているのかもしれない。
そうしたときに、人間と犬という関係性のあるべき姿という解は、非常に流動的で、多様的な様相を呈する。
では、犬たちにとっての幸せって何なのだろう。
もし人間がいなくなったら、犬たちはどんな風に生きていくのだろう。
そんなことを考えていくと、改めて「犬」という生き物の面白さに取りつかれる。長い長い歴史を、人とともに生きてきた「犬」という生き物は、野生の生物と同じように扱うには少々異質な存在だ。
「共存」と「共生」、「愛護」や「保護」。
聞こえはいいが、こうした言葉はいったいどんなことを指し示していくのか。それを断ずるには、犬と私たちの関係は、少々複雑すぎて、実に多彩で。
それを悩むことが幸せなくらいに、犬という生き物はやはり愛おしい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?