私は質問ができない
午後8:14
いつもならベッドに入って寝ている時間だ
明日も午前5時出勤なので、3時に起きなくてはいけない
しかし、頭が冴えて眠れない
今日もしっかり10時間働いた 体も心も疲れ果てている
しかし脳だけがらんらんと冴え、リラックスとは程遠い方向へ独り歩きしている
何か大きな失態を犯した訳では無い
職場の誰かにケガをさせたとか、店にとって大きな損害を与えた訳でもない
でも、今日私は明らかに「間違った」ことをした
質問が出来なかった
上司は私によく言う 「わからなかったら聞くんだよ」
しかしこれまでこの職場で約7カ月働いてきた中で、私は上司に何度質問できただろう
片手で数えられるほどとも言わない、両手で数えられる以上、沢山の質問をしてきたと思う
ただ、大小すべて含めて「わからない」と思った回数に対し、その場で即質問する事をどれくらいの回数出来たかと問われたら、半分のそのまた半分もいかない気がする
わからないものに直面した時の「質問しなきゃ」という感覚の息苦しさ
手元を動かしてるふりで、上司の様子を伺いタイミングを見計らう
今はなんか忙しそうだな、やめよう あ、今ならいけるかも そばに来た 今だ!!
そう思えた時程、言葉は喉元につっかえて出てこない 上司もタイミングも一緒に過ぎ去っていく
ドイツ語がわからないのではない、いやわからないのだが、そうではない
質問しなきゃと思えば思うほど心の溝にはまり、もがけばもがくほどあらぬ方向へと体がねじれていく
この感覚は日本で社会人をやってた頃から、いや学生時代から
いやいやもっとさかのぼれば、幼稚園の頃からあった様な気さえする
25年以上前、私がまだ幼稚園生の頃
担任の先生は若く笑顔のかわいい女の先生だった
ただ、授業中に無駄なおしゃべりをする子を容赦なく廊下に締め出す人でもあった
当時の私はお喋りで、授業中に声を出す事の何が悪いのか本気でわかっていないような典型的な落ち着きのない子供だった
だからつい授業中も何の気なく隣の子に話しかけてしまうのだが、それを聞いた先生は鬼の形相で私の元へやってくる
私は「しまった」と思うが、時すでに遅し 大人の力でぐいぐいと廊下の方へと押しやられ、そのまま教室からはみ出て引き戸がぴしゃりと閉められる
その前で私は慌てて大声を上げる
ごめんなさい!ごめんなさい!
何度も謝るとようやくガラッと扉が開き、大好きな先生が立っている よかった中に入れてもらえると安心したのも束の間
「うるさい!」
私の大好きな先生が、語気強く怒鳴り戸を力強く閉めた
私は何が起きたのかもわからず、とにかく喋っちゃいけない事だけを理解して、声を殺して泣いた
クラスの目の前の廊下はそのまま玄関になっていて冬は暖房も効いてない
下駄箱前の冷たい廊下にお尻をつけて、静かにしゃくりあげながら真っ赤な目で扉が開くのをひたすら待った
別の日には図工で折り紙を折っていたら途中でわからなくなり、隣の子に小さな声でどうやるのと聞いたらまたお喋りだと思われ、再度ぐいぐいと廊下に締め出され、また成すすべもなく黙ってぽろぽろ泣いた
本当によく、多い時は本気で毎日廊下に出された
当時はどうしてと思うばかりだったが、先生の年齢も越した今想像すると申し訳ない気持ちもある そのくらい子供の頃の私は周りの見えない自分中心な(今もだが)子供だったのだ
そうしてある時から私は声を上げることがふと怖くなり、黙る事を覚えた
そして黙っていると誰にも怒られない事を知った
そうして大人になった今、私は見事に無口になった
その幼稚園での出来事が全ての原因だと言いたい訳でないが、今日感じた質問できないつっかえと、あの時喉の奥に封じられた「ごめんなさい」のつっかえの感触が似てる
サイダー瓶のビー玉のようなものが喉で転がっていたずらに蓋をしたりころころ転がって、上手く声に乗って出てこない
ただ単に私が年を取ったからプライドが邪魔して質問する事を妨げているだけだとしても、私はあの時お尻に感じた固く冷たい床の感触をこういう時につい思い出す
あれから25年以上が過ぎた今、単身ドイツへ飛びおぼつかないながらもなんとかドイツ語を駆使して肉屋で働き出しとっくに大人になったと言われる年齢になった今もなお「質問ができない」を抱える自分に直面し、絶望する
そうして質問が出来ないから作業も進みが遅く、ついには「それもう片付けて、明日続きやって」と言われる
しかしナイフを握る右手はもう限界で、もう質問しなくていいんだと思うと、むしろ助かったとすら思ってしまった自分が果てしなく情けないし、恥ずかしい
体力も持久力も無く、質問する事さえも満足にできないのか 私は
上司はこんな私をどう思っているのだろう 呆れかえっているだろうか
昼食を覗けば7時間は立ちっぱなしで働いている身体的疲労も相まって、思考もネガティブな方向へ落ち込んでいた
そんな時、上司が私の元にやってきた
私は彼のドイツ語を聞き洩らさないように耳を傾け、話をよく聞く姿勢になる
「〇〇、冷蔵室にぶら下げてる製品の名前教えてあげるから、今度ノート持ってきて」
私が今勤める職場の冷蔵室には多数の製品が並んでいて、その端っこにソーセージをぶら下げておく区画がある
ここのエリアに並んでいるのはちょっと特殊なソーセージで、例えば豚の血を使ったBlutwurst(ブルートブルスト)や、レバーを使ったLeberwurst(レバーブルスト)など
まだ私が製造に携わる事を許可されていないものもあり、見た目だけで一発で判別できない事も多い
一度終業後に、冷蔵室に上司について来てもらいここにぶら下がっているのは何かと尋ねたことがあった
忙しい業務中よりも、終業後なら、こんな私でも質問できるかもしれないと思ったのだ
疲れている所申し訳ない気持ちもあったが、声を掛けたら上司は快く冷蔵室までついて来てくれた
そして私がそれら一つ一つを指差し「これは何と言うの?」と尋ねるとゆっくり答えてくれ、アルファベットの綴りも教えてくれた
彼は先週のその出来事を覚えてくれていたらしく、私がここの事を知りたいとわかってくれたようだった
彼が、私の意図を汲んでくれたのだ
そうだ、私は質問ができないわけではない
瞬発的に聞くことがどうしても苦手だから、ちゃんと後で落ち着いて質問しようと、別の手を打てるのだ
そして上司もそんな私を理解して、落ち着いて教えてくれる時間をとろうとしてくれている
今日、つい自分の「できてない」ことばかり見えてしまい焦りでどうしようもなくなっていたが、私はちゃんと「自分のできるやり方も」試していたし、別の手段を考えられるのだ
もちろんわからない事があったら、その場で聞くのがベスト それは揺るがない事だと私も思う
事実、奇跡的に何度か質問が出来た時はとてもスムーズに事が進んだ
それでもやはり、質問が苦手、もっと言うと発話する事が苦手であるまま大人になった自分を、今日から180度変える事は私には出来ない
プライドを捨てろ、慣れればなんてことない、何度言い聞かせても喉にはビー玉がころころと転がり、素直な言葉が出るのを遮る
そこでずっと苦しんで立ち止まるくらいなら、回り道でも、今日の自分ができるやり方で前進していきたい
これはきっと人より遅い歩みだけど、今はそれを一旦避けて考えたい
ただ他の誰も関係ない自分の中の最速を目標に、もしつまずいても立ち上がり、歩み止めないよう、明日も頑張って働けたらと思う
ここまで読んでくださりありがとうございました!