見出し画像

マヤってなんだ④大阪・国立国際美術館「古代メキシコ展」編~アステカ

展示・アステカ

アステカの展示は、有名なトラロックの青い壺やテスカトリポカが刻まれた骨壷など、非常に洗練された芸術的な出土品が多かったです。

衝撃的だったのはアステカに住む人々が度々ティオティワカンを訪れ、埋もれていた翡翠の仮面や石像などを持ち帰っていたこと。

アステカがテノチティトランで栄えていた時代、ティオティワカンはとうの昔に打ち捨てられ廃墟となっていました。
アステカの人々は誰も住んでいないティオティワカンの街や神殿から、いろいろなものを見つけ、修繕して、自分たちの血統の神秘性と正当性を高める道具としたのだそうです。

もともとテノチティトランに住み始めたアステカ王国の祖となるメシーカ族は長い間流浪の生活を送っていたと図録に説明がありました。きっと各地を巡る間に様々な文化に触れたのだと思います。

その土地の神様に影響を受けることだってあったでしょう。マヤでしばらく暮らしていたなら、羽毛の蛇神に祈りを捧げた時があったかもしれません。イツァムナーやエエカトルの名前を覚えていたかもしれません。

それがティオティワカンの廃墟を探る中で、自分たちの神様として新しく再構築され、自分たちの言語で改めて名付けをした。

マヤの神様とアステカの神様がしばしば同一視されるのは、アステカが興こる800年前にあったマヤとティオティワカンの交流に加え、メシーカ族の流浪の旅のうちに起きた文明の吸収に原因があるのではないかと私は考えます。

アステカはこれまでの古代メソアメリカに栄えた様々な文明に影響を受け、自分たちの流儀に新しく生まれ変わらせて、テノチティトランに大きく花開いた。そんな印象を受けました。


とまあ、訳知り顔でここまで持論を展開してきましたが、素人の浅知恵ですので寛大なお心で受け止めて下さるとありがたいです。

香炉。かなり大きい。主に樹脂を焚いたそうです。
判子?なにか型を押すものとしかわかっていないようです。これでボディペイントしていた説があり、木の実の汁を使って刺青のようにしていたんだとか。

旅を終えて

岡山、大阪をめぐる旅から帰ってきても、マヤ文明に私は未だ囚われたままです。

旅で古代メソアメリカ文明のハードの部分は少しわかった気がする。ではソフトの部分は?食べ物は?着る物は?と興味が尽きません。

ご当地のグルメを食べるでも、良い景色を眺めるでもない弾丸のような旅でしたが、満足感でいっぱい!
またこんなことをしてみたいな。


長い記事でしたが読んでくれてありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?