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卒業式の次の日、ひとごと

カーテンの向こう側から1年生のかわいい声が聞こえる。

「ゆり、ゆり。休校だって。
 午前便 欠航なんだってっ」

基本的に普段からかわいい2人のやり取りが、今日はもっとかわいい。同部屋の先輩、わたしをさしづめ気遣っておきたい、という殺しぎみの声とちいさい「つ」に思わず目が細まる。細める、までもなく、自然に細まる。チラシを細く、細く、丸めて、かたいかたい棒にして、振りかざすように。この状況が楽しくなっている自分よ、めずらしい。カーテン越しに、カーテンを越せるような声で「やった」とつぶやく。2人のやり取りが途切れる。それすらも楽しく、ひーって感じであった。

昨日は3時半ごろに、ようやく寝入ったので体はとてもつらい。意味もわからず布団に帰りたくなくて、ひとり水曜日のダウンタウンを視聴。あさげとごはん、ごはんとカレーをそれぞれ少しずつ混ざらせながら食べ、その後 歯磨きを2回してからようやくベッドイン。なお、ベッドではなく、布団である、先述したように。

わたしがとりわけ意味もなく夜更かしをしてしまった日の、とりわけ疲労感の強い日の翌日は、けっこう海上時化がちである。本当に、そうなのである。

なんと、わたしは丸4日間風呂に入っていなかった。制服で寝て、制服で起きて、を3回か4回か、繰り返して 今である。時間はなかったのか、と聞かれたら、ああ、ありました。それでも、本当に女子高生の「ら」を目の当たりにする元気、なかったのですよ本当ですよ、と言いたい。言わない。今は、誰にも言わない。から書いた。それだけの事なのに。

舎監の方に、本当に特別に許可をいただいて、午前中のうちに風呂に入る。そこには誰の「ら」もなく、ただわたしが「ら」であるだけ。風呂場で起こりうるすべての動作に「4日ぶり」がつきまとう。その都度、にやにやしている。

あーたのしい。

そのあとは、ずーと観たいと思っていた、ドラマの「凪のお暇」がティーバーで今なら見れちゃうということを知る。しゃーわせ。しあわせ、の「し」と「あ」が図らずも繋がり、でも、それでいいって思える、それで幸せ。

凪のお暇、観ている。ヘッドフォンの電源が落ちたので、部屋を移動して、誰もいない部屋でヘッドフォンなしで、観る。

ふと、回しっぱなした洗濯機に気がついて、急いで駆けつける。幸い空いていた乾燥機にまたもや、にやにやが止まらない。止まることをしらない、おれの口角〜、というテンション。一旦おばかあたまを抱える。

は。

何度か着たのに未だ洗濯していないセーター、カーディガン、ベストを洗濯しようではないか、と思い立つ。そのおまけに、枕カバーも洗濯機にかけようではないか。また、楽しくなってきてしまった。

初めての「おしゃれ着洗い」。ボタンを押した途端、水が勢いよく流れ始める。どうやら、「おしゃれ着」を傷めないよう、たっぷりの水・少ない衝撃で洗い上げるらしい、ということがなんとなく推察される。

セーターを干す。なんだか、干し方があったはず。なんか、跡がつかないやつ。検索にかけようとして「セーター 欲し方」と打ち込んでしまう。別に「欲しい」と言えばいいだけではないのか、と思い、はっとする。欲しいものを「欲しい」と素直に言える今の自分ができるまで、一体 何人の手を借りてきただろう。事が難しくなりすぎたので、ぎゅーんと意識を右手親指のささくれに集中させる。血が、にじんでいる。

枕カバーを洗濯して、あたたかい部屋に干せるよろこびよ。凪のお暇を観ているよりもずっと、ずっとうれしいことが、なんとなくうれしい。

今まで、生活を丁寧に、大事にしている友達に対して「生活という、ひたすらの現実を直視しながら、よく生きていけるな」と半ば敬遠するような気持ちがあった。そこに尊敬はありつつも、「自分はそうはなれないから」というふうに一線を引くような、そんな感覚もそばにあった。

でも、今はちがっていて。一度 自室も、教室の自分の机上も溢れさせて、溢れさせたまま生活を重ねて、うまく重ねることができなくて、途中ですべて床に落として、その拍子になにかが割れてみて。ようやく自分の意思で、生活という現実に歩み寄ることができた。

教室の机上(と、ロッカーの中)は放課後の合間を縫って、さっぱりさせた。
自室もまた、放課後 早めに帰ってきて、何日か かかってようやく整理した。自室、と言いながら自分だけの部屋でない、というところがポイントである。後輩ふたりにどのように思われていたのかは、こわくて聞くことができない。わたしの弱み。そう、わたしはなんと、弱いのである!

よし、凪のお暇の 続きを観よう。

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