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あいさつ代わり

最近になってやっとわかってきたことは、私はどうやら、日本人が元々持っていた精神性を有している、あるいは回復させたため、他の人とことごとく関わりがうまくいかなかったようだ、ということである。

これは裏を返すと、現代日本人は、日本人が元々有していた精神性を失っている、ということでもある。

ただし、完全に喪失することは、原理上あり得ない。

この「完全に喪失する」ことを、この記事を読んでいる方の感覚に即して言うと、これは、今、この記事を読んでいるであろう「わたし」という感覚自体が喪失することを意味している。

つまり、「それはあり得ない」ということです。

この記事を読むことができているということがすでに、「大丈夫」ということなんですが、ただし、このことに気がつかないままだと、「永遠に喪失し続ける」状態にはまってしまいます。

つまり、「現に喪失しようがないものが、実際に喪失しえる」としてしまうことにより、結果として「永遠に喪失し続ける」という状態を作り出してしまう、というわけです。

そういう意味でも、日本人がその精神性を完全に喪失することは、原理上あり得ない、ということです。

たとえ概念的言語としてのみであれ、その遺産は確実に継承されていますから。


さて、先に少し言及した「わたし」という感覚についてであるが、この表現はいろいろと「難あり」な表現である。

なぜならば、現状、つまり覚醒体験を経ていない意識段階、においては、「わたし」は「自我」として感じられるからである。

これがどれだけわかりにくいトリックであり、そしてどれだけややこしい状況を作り出しているかは、わざわざ言うまでもないだろう。

そのため、例えばだが、神秘主義で言う「I am」ということもまた、現状で「いきなりアイアム」というのは、「単なるエゴイズム」「怒りまくりですかね」「あの人は訳のわからないことを言っている」「たぶん妄想性障害」「精神病なんだろう」みたいな感じにしかならない。

そんなことをし続けていたらいずれ、対人的にだけではなく霊的に孤立していく。

実は、対人的な孤立よりも危険なのは、霊的孤立である。

霊的に孤立している人は、他人に頼らなければ精神の安定を図ることも維持することもできなくなっている。

言い換えるとこれは、大半の人の精神的状況でもある。

さらに、もう一つやばいことは、ここでさらりと「他人」という言葉を使ったが、実は「他人」は実在していない。

つまり、他人に頼ることは、実在していない人に頼ることになる。

ただし、「他人は実在していない」というのはもちろん、例えば自分の目の前にいる人は実在していない、ということではない。

「他人」というのはただ解釈を通してのみ存在している、つまり自分の中のイメージでしかない。

もう少し言うと、目の前の人の立ち居振る舞いやその人の言動などから感じられる、「「他人」であるその人」というのは、あくまでも自分のイメージの産物であり、実在していない、ということである。

この、「他人は実在していない」ということは、マヤ族のあいさつである「インラケチ」ということでもある。

「インラケチ」とは、「私はもう一人のあなたである」という意味であるが、「あなたはもう一人の私である」という意味ではない。

この言葉は、自己と他者の境界をなくす意味ではなく、自己と他者の存在論的差異を顕在化させる意味である。

「人はどうしても、相手のことを他人としか捉えることができないが、実はそうではない」という、意識の構造的背景から要請された言葉である。

ただし、このこともまた、どうしても、「「相手は他人である」という自分の知覚を積極的に否認する」ということだとして感じられてしまうが、実はまるで違う。

もう少し言うと、これは、「「相手は他人である」という知覚の、「その向こう」がある、ということをわきまえる」というような意味である。

そのため、「インラケチ」という言葉を、できる限り誤解の余地がない日本語に言い換えると、これは以下のようになるであろう。

私は、あなたにとっての相手という姿の、「その向こう」にいます。
そしてその私は、あなたの相手ではなく、実はあなたと同じです。
あなたが今、私に気が付いてくれたらと、ずっと心待ちにしております。
                             かしこ

インラケチ !

相手のことを他人と感じている状態は、差異が際立っているのではなく、実は、差異が潜在化している状態である。

なぜならば、「他人である相手」というのは実在せず、それはただ自分の心の中のイメージだからである。

そのため、ここでいう「差異を顕在化させる」というのは、「自分から見た相手、すなわち他人というイメージ」と「真の他者」との差異を、自分の側において顕在化させる、ということになろう。

まるで謎めいた話でしかないとは思うが、現状では致し方ない。

ざっとこのようなことである。

肉眼の目は形態のみを見る。肉眼は、それが見るべきとされているものを超えて見ることはできない。そして肉眼は誤りを見るために作られたのであり、それを見過ごすために作られたのではない。

奇跡講座、T-22.III.5:3-5

ここでいう「肉眼」とは、日本語の身体言語表現のようなものであり、実際には、通常の意味での視覚的認識のことだと受け取った方が分かりやすいかもしれません。

そもそも、肉眼はカメラのようなものであり、肉眼自体が何かを見ているわけではなく、自分は肉眼を通して何かを見ているのだから、というのもあります。

これはもしかしたらですが、英語の「through」には、「~によって」という意味と「~を通して」という意味とがあるように、英語圏の人はこうしたニュアンスをあまり識別していないことによるのかもしれませんが。

それはともかく、ここではまず、肉眼という感覚器官と、肉眼を通して得られた視覚的認識とは不可分のものである、という前提で捉える、ということなのかもしれません。

仏教的に言えば、「眼」という感覚器官と「色」という感覚対象とは、実際には不可分のものである、ということになりますか。

(7/22 追記。ここのテキストの表現は「当事者感覚」として、つまり、当事者としては「肉眼」と「肉眼の機能」と「肉眼を通して得られたもの」とをことさら区別する必要がないから、なのかもしれません。というのは、以下に書く生理学・脳科学的見地は、あくまでも、本人の様子を他者側から捉えたときのものだからです)

しかしこれは、生理学・脳科学的には違います。

なぜならば、視覚的認識は肉眼自体によっているのではなく、肉眼を通して得られた情報は、脳の視覚野を介して解釈されていますが、ここで言われていることは、その解釈による現実認識は、実際の現実とはまるで異なっている、というところに関する言及だからです。

しかしその解釈の方が、自分にとっては「まぎれもない現実」としか思えません。

言い換えると、自分が今、目の前に見ているものは、現実そのものではなく、脳内解釈を通して再現された映像を見ている、ということになります。

そして、例えば目の前のスマホとかマグカップとかに関しては、現実そのものと脳内映像との「誤差」は、ほぼ無視できる程度になりますが、こと対人認知に関しては、それは決して無視できないものになっているようです。

ですから、相手とちゃんと話をしようとすると、まるで、相手は思考障害にでも陥っているのではないか、と思われるほど、相手はイミフで訳の分からないことをしゃべっている、としか見えてこなくなりますが、この状況こそが、ヌーソロジーでいうψ5,6のステージが顕在化している状況であり、そしてここにこそ、「インラケチ」へのアプローチが垣間見えています。

(ただし、私のヌーソロジーの理解は自己流であり、ヌーソロジー本家の解釈とは異なっているため、この記事に書かれていることをもってただちに、ヌーソロジー本家の理解とすることはできません)

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