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コロナの「功労な」

(多少追記あり)

実にどうでもいいことですが、「567(コロナ)」による人の「564(ころし)」、みたいな表現を見かけたので、これ、次元観察子の数字と単純に照らし合わせると、実に興味深いことになっているんですよね。

ψ5,6 における自己と他者の対化の等化において、それがψ7を目指しているときには、ψ7,8の段階に到達しますが、その反映として、ψ5,6における等化作用がψ4、つまり人間の内面性を拡充させることになっている、ということです。

対人関係の俯瞰は、えてしてこうしたことをもたらすようだ、ということなのでしょう。

俯瞰と内面化との違いに関しては、いろいろありますが。

人類史を通して、これまでは「564」の方が文明の発達においてうまく作用していた、つまり内面性の拡充に一役買っていましたが、今後はどうもうまくいかなくなるようです。

余談ですが、「悩み」というのを「783」とすると、これは、元止揚空間の「外」に抜けるかどうかというところで、再び人間の外面性へと戻るというループのことを指しているとすれば、これ、普通に「悩み」ということの本質だったりするわけですよ(笑)。

さらに言うと、「悩む」というのを「786」とすると、これは、元止揚空間の「外」への志向性を自らのありように反映させることを指しているようですが、両者ともに、「9」がよく見えていないことによるようです。

というのは、「岩戸」を「一八十」とする向きもありますが、なんと「九」が抜けていたりするという、この出来すぎ感(笑)。

そもそも、「189」だとこれは、「いわく付き」の代物ですから、いや、実にあやしい(笑)。

そもそも、従来の意識では、「9」の「思形」はどうしたって「死刑」を思わせるわけですよ(笑)。

もちろん、元止揚空間の「外部性」は、自我にとっては「死を強要される」ものとしてしか感じられませんから、これはとてももっともなことです。


それはともかく、ですから、コロナというものをどうとらえ、どう対処するかという点において、人類は大きく、7の方向に抜けるか4の方向に戻るか、という選択を常に迫られている、と言えます。

ただしこれは自分の中でも同時にこの2つの動きが起きているので、実はそんなにビビることではありません(笑)。

7と4は潜在的には常に対になる何か性質を有している、のかもしれませんしね。

音階でも、ペンタトニックスケール(五音音階)は別名「ヨナ抜き」と言いますが、これは音の順番として4番目と7番目を抜いた音階のことです。

やはり、1,2,3 までは比較的たやすいのですが、4 でちょっとつまずき、5,6 はなぜか 4 と 7 の間で特別に括られている、というか。

やはり、順序性とは1から始まるのではなく、5 と 6 、およびその関係性に内在する何かが展開したもの、なのかもしれません。

以前、観察子の構造は、順序としての数字自体にすでにその性質が内包されていた、ということを発見しましたが、その時に書いていた文書は、残念ながらどうやら削除していたようです(笑)。

で、残っている文書の中から、これは2020年9月に、当時のブログに書いたもののようですが、なんか面白かったので再掲しますね。

念のためですが、これはあくまでも、当時の思いであり、現在では違っていると感じるところもままあります。


コロナウイルスに関して、思うことを書いてみたいと思います。

コロナウイルスに関しては、本当にいろいろな情報が飛び交っていて、その内容もピンキリですが、そうしたことは任せておいて、ここでは、心の面から捉えてみたいと思います。

毎日発表される感染者数ですが、少なくとも現段階では、毎年のインフルエンザよりもかなり少ない数字であることは周知されています。

しかし、ではなぜ、コロナだけが神経質に取り沙汰されるのかという理由は、端的にそれが人類にとって「未知なるもの」だからでしょう。

インフルエンザウイルスも実はかなりやばいウイルスなのですが、毎年のことなので、慣れているため、コロナウイルスに比べて恐怖を感じないわけです。

この世界、特に町や都市の生活は、すべてが「予測可能」であるという特徴があります。

それに対して、自然界は、常に予測不可能性があります。

言い換えれば、「未知なるもの」です。

文明がしてきたことを一言で言うならば、「未知なるもの」を「既知のもの」に作り替えてきた歴史であると言うことができる、と私は思っています。

(こうした考察に関しては、養老孟司氏が「ああすれば、こうなる」という言葉を手がかりにして、繰り返し考察しています)

つまり、文明の中で生活している限り、私たちはすべての物事が「予測可能」であるという、集団的な幻想の中で生きていられます。

食べ物は、スーパーやコンビニに行けば売っていますし、電車も何時何分に来ていつ到着するかも分かっていますし、宅配便も必ず届きます。

(地上にはそうではない地域ももちろんありますが、ここではそこまでは言及しません)

「未知なるもの」は、この生活状況の中では、「アクシデント」や「トラブル」といった形でしか姿を現しません。

その中で、インフルエンザウイルスも、「今年は何型が流行します」とか、ファッショントレンドじゃないのに流行の予測もありますし、そのようにして、「未知なるもの」を既知の範囲に収めようとしています。

しかし、コロナウイルスに関しては、情報があまりにも少なく、また、恐ろしい情報が多いです。

そして、その恐ろしさは、「未知なるもの」への恐怖感と言えるのではないかと思うのです。

つまり、「既知のもの」で覆い尽くされた文明意識の「隙間」に、突然入り込んできて、どんどんその隙間から得体の知れないものが増殖していく恐怖感です。

それは、文明そのものが崩壊するのではないかという恐怖感でもあれば、自分も感染するかも分からない、しかも、感染したらどうなるかも分からない、さらには、自分ではそのつもりがなくても他の人に感染させてしまっているかもしれない、など、膨大な恐怖感があるわけです。

これは、実際のウイルスがどうであるかということとは、必ずしも関係がありません。

そうではなく、未知のウイルスの出現という出来事によって、私たちが潜在的に抱えている恐怖感に「火がついた」のです。

いわば、物質的な感染とは別に、ウイルスが「心」に「感染」したようなものです。

今までは、意識が既知のものに覆われていて、恐怖感にも蓋をすることができていたのですが、「未知なるもの」に世界が席巻されてしまうことで、もはや蓋をし続けていることができなくなったわけです。

さて、「既知のもの」で覆い尽くされたかのように見えている文明の中でも、「未知なるもの」は存在します。

それはいろいろありますが、実は最も身近なところに存在しています。

それは、「他者なるもの」です。

他者は自己にとって、常に「予測不可能なもの」として現れます。

ですから私たちは、知らない人のことは、まるで風景の一部であるかのように捉えますし、知っている人や身近な人に関しても、なんとかして予測可能な中に収めようとします。

この行動には両面性があり、一つは、他者なるものを予測可能にすることで、「未知なるもの」への恐怖感に蓋をし続けることができます。

しかしその反面、もしかしたら自分を救ってくれるかもしれない可能性にも、同時に蓋をしてしまうのです。

「瓢箪から駒」ということわざがあるように、奇跡的な展開は、常に、他者あるいは「他者なるもの」との関わりの中にあります。

しかし、実は私たちは、未だに真の意味での「他者」と出会っていないとも言えるのです。

今までの私たちは、「既知なるもの」で覆い尽くされている「自分の世界」に安住してきました。

そこは、すべてが「予測可能」な世界なので、いろいろと嫌なこともありましたが、それ以上の安心感、無難さがありました。

他者なるものに対しても、それを予測可能とすることで、他者の存在を「塗り込め」、いわば自分の世界の中に「繰り込んで」きました。

あるいは、「境界線を持つ」というように、「未知なるもの」と「一線を引く」ことで、心理的に安定しようとしてきました。

その中に登場する他者というのは、実のところ、自分の「影」としての他者でしかなかったわけです。

ですが、コロナ騒動によって私たちは、「未知なるもの」を意識せざるを得なくなりました。

そして、「未知なるもの」に対して、自分がどれだけ不安や恐怖などを感じているか、を、まざまざと自覚させられました。

しかしそれは言い換えれば、自分の無意識に澱のようにたまっている恐怖や不安などを表面に浮かび上がらせて解放する機会とも捉えることができます。

また、「他者なるもの」の持つ「得体の知れなさ」を、今まで自分がどれだけ見ないようにしてきたかも、突きつけられました。

しかし、そうしたものすべてを超えて、「他者なるもの」と真に出会うことしか、心の解放に至る道はないと私は思います。

コロナはそのことを告げているだと思います。

これは別に、だから積極的に感染しましょうということではありません。

コロナが私たちにもたらした心理的影響やレッスンについて述べているのであり、物質的な存在としてのコロナに言及しているのではありません。

しかし、一部の人が言っているように、「コロナ」というカタカナを組み合わせると「君」という字になるということは、だじゃれっぽいですが、まさに「君」=「他者なるもの」なのです。

私たちは未だに、他者をあるがままに知覚していません。

すべてを、自分の信念に基づいて知覚しています。

しかし、他者こそが、自分で作り出した世界から自分を救い出してくれる「救い主」なのではないかと思うのです。

私たちは、世界も他者も実は何も見ていず、ただ自分の信念の投影を見ていたに過ぎなかった、ということ。

そして、この状態から脱出し、心の解放を手に入れる道は、「他者なるもの」と真に出会うことにしかない、ということ。

繰り返しますが、物質としてのコロナウイルスが人類を救うということではありません。

ここで言うコロナというのは、あくまでも、メタファーとしてのコロナであり、先にも書きましたが、「心に感染したウイルス」としてのコロナのことです。

コロナがもたらした禍を転じて覚醒へのきっかけとなすという道があるのではないか、ということです。

そして、コロナという存在が意識の中に登場してきた以上、もう、「コロナ以前」の状態には戻れないのです。

私たちは、コロナによって、「未知なるもの」に自分がどう対処してきたか、そして今もどう対処しようとしているかを、否応なく突きつけられています。

コロナに対して、「なかったこと」にしようとしたり、戦おうとしたり、無力感に襲われたり、などをしても、先に進むことはできません。

そうしたことは、実は、「未知なるもの」と直面するのを避けることによって、変化の可能性に対しても心を閉ざしてしまっているのかもしれません。

ここでは、「他者」というものを、自分とは別の存在として論じましたが、実は、自分の潜在意識・無意識もまた、自分にとっては「他者なるもの」です。

もしかしたら、最も身近な他者は、何も目の前にいる人ではなく、自分自身なのかもしれません。

ですから、今できることの一つは、おそらく、自分自身との対話を深めていくことでしょう。

自分自身とのつながりを取り戻して行くにつれて、他者をあるがままに知覚することもできるようになるのかもしれません。

そしてもう、自分自身とのつながりが回復する段階には、とっくの昔に突入しているわけです。

だからこそ、心の蓋が開き、今まで封印してきたさまざまな恐怖や不安や過去のトラウマや、といったものが際限なく噴出してくるような感覚になっているのです。

ただし今回は、自分という他者とのつながりの回復だけではなく、自分とは別の存在として知覚されている他者とのつながりも回復する段階にさしかかりつつある、ということなのだと思います。

今まで自分がとってきた方策を、いったん見つめ直すことも役に立つのかもしれません。

自分を閉じ込めている心の牢獄の扉は、実は内側から開けるようになっています。

それは元々、外界や他者から自分を守るためにと、自ら選んで閉ざした扉だからです。

しかし私たちは、そのことをすっかり忘れ、誰かから牢獄に閉じ込められていると感じ、また、その鍵が自分のポケットの中に入っていることも忘れて、牢獄の中をあてどもなく探し回って、疲れ果てているようなものです。

他者が教えてくれるのは、自分は誰かのせいで牢獄に閉じ込められたのではなく、自ら選んで閉じこもっているのだということと、もう一つは、「あなた、ポケットに鍵持っているから」ということなのかもしれません。

いくらそのことを否定しても、たとえ「そんなことがあるわけがない」と相手に対して怒り狂ってみせたとしても、ポケットの中に、今まで見たこともない(というか忘れようとしてきた)何かがあるわけです。

それはもう、否定しようがないのです。

そして、このまま、現在の延長線上に未来を想定しても、それは牢獄の中でのことであり、そんな架空の未来は絶望でしかなく、そして本当はそこには未来はありません。

本当の未来は常に、「思いがけない」ところからやってくるものであり、それもまた、広い意味では「他者なるもの」からもたらされるのであり、そうしたことすべてに気づく機会が、コロナがもたらしたものの一つなのではないかと思います。

そして、牢獄の扉を開くのは、自分の選択次第です。

別に、このまま閉じこもり続けることがいけないということはありません。

ただ、自分が本当はどうしたいのかを正直に認めると、どうしてもそこには、「選択の余地がない」としか言いようのない感覚があります。

つまり、「本当は牢獄の外に出たい」という気持ちです。

そして、もし誰かから閉じ込められたのであれば、もう自分には救いはなく、ただ絶望するしかありませんが、自ら選んで閉ざしたのであれば、自分で開けることもできるわけで、それは希望になるのだと思います。

その鍵は、人それぞれです。

例えば、より自分との対話を深めていくことが鍵になる場合もあれば、問題を積極的に誰かに相談することが鍵になる場合もあるでしょう。

いずれにしても言えることは、コロナによって、もう、「自分の世界」という牢獄の中で安住できる時代は終わった、ということです。

今はまだ、「他者なるもの」「未知なるもの」が、自分の中、「自分の世界」の中に「侵入」してきた、という違和感で苦しんでいるところです。

ですが、もうこの違和感は、「なかったこと」にはできません。

コロナの侵入によって、牢獄には「外」がある、ということに、否応なく気がついてしまったからです。

今まで、牢獄の中で安定していられたとしても、「外」の存在を知ってしまった以上、もう、「外」に出たいという気持ちが、押さえようもなく強まってきています。

このまま、牢獄の中にとどまり続けるという選択がいけないということではありませんが、それはもう、苦しみを長引かせるだけだということにも、薄々気がつき始めています。

苦しみを長引かせることも自己責任として引き受けようとしてみて、気持ちを我慢し続けたとしても、牢獄には扉があるということは否定しようがありません。

今、コロナが牢獄の扉をノックしています。

ノックしているのは、「君」です。

さて、私は、それを無視し続けるのでしょうか、それともそれに応えるのでしょうか。

最後にジョークを一つ。

今まで、自分が牢獄の中で生き延びてこれたのは、なぜでしょう。

どこからともなく食べ物が現れたのでしょうか。

自分の排泄物は、どこへともなくただ消えていったのでしょうか。

実は自分はずっと、牢獄の壁に向き合ってきましたが、背後には全く意識が届いていませんでした。

背後から、誰かが食べ物を差し入れてはくれていませんでしたか。

背後から、誰かが自分の下の世話をしてくれていませんでしたか。

そう、牢獄の壁は自分の前面にしかなく、牢獄の背後は常に、「他者なるもの」に向かって開かれていたのです。

しかし、では背後を向きましょうといって自分が背後を向こうとすると、今度はそちらが前面になり、壁に覆われてしまいます。

この、牢獄の壁がフェイスシールドよろしく自分について回っているような状態が、今の自分の状況なのでしょう。

全く笑えないジョークですが、人生こんなもんなのかもしれません。


いやしかし、あらためて読み返してみて、当時とまるで変っていない自分に、ただ苦笑するのみ、です(笑)。

最後に一つ。

他者に多謝

ではでは~。

あ、あともう一つ、自分とはこの世界に対して「他者なるもの」ですから、この世界を判断基準として自分のことを捉えると、自分とは「コロナそのもの」です。

ですから、「君はコロナだ」というとき、それは、自分が「世界適合者」たる自覚を有する場合において、「インラケチ」としての「もう一人の自分」を排斥しようとする欲動でもあるのでしょう。

ただし、さらに言うとこれは、「「君」こそが私の救い主だ」ということでもあり、これは単に、「ノンモとは「あなた」のことです」というOCOTの言葉(『シリウス革命』、p.610)を言い換えているに過ぎませんが。

例えばこのように、「表向きの意味(建前)」→「潜在化している意味(本音)」→「隠された意味(啓示)」という段階は、奇跡講座の文章の基本の流れともなっています。

んでは。


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